Autor del artículo

Yo Kawanari
川成洋
かわなり よう
1942年札幌で生まれる。北海道大学文学部卒業。東京都立大学大学院修士過程修了。社会学博士(一橋大学)。法政大学教授。スペイン現代史学会会長。主要著書『青春のスペイン戦争』(中公新書)、『スペイン戦争ージャック白井と国際旅団』(朝日選書)、『スペインー未完の現代史』(彩流社)、『スペインー歴史の旅』(人間社)ほか。

セビリャ再訪――その個人的な点描

2010年5月

「セマナ・サンタ(聖週間)」のほぼ1週間前のセビリャ。ぼくは、マカレナ地区のホテルに泊まった。夕方、ホテルの近くの広場では聖週間の行列を先導する音楽隊が練習していた。音楽隊といっても、その教区の少年たちである。そういえば、ぼくがよくこの音楽を聴いたのは、グアダルキビール川のイザベラ二世橋(トリアナ橋)近くの河畔、大航海時代にインディオの擁護のために戦い「インディアスの使徒」と謳われたラス・カサス神父の顕彰碑の付近で練習していたからであった。実に懐かしい音色であった。


マカレナの聖母

 ちょうどホテルと向いのところに、偶然にも、マカレナ教会があった。たいして大きくなく特徴のある教会とはいえないが、夕方から夜にかけて、とにかくその教会に人がどんどんと吸い込まれていく。ぼくもその一人となり、聖堂の中を覗いてみると、何と正面の祭壇に、聖週間にパソ(山車)に載る「マカレナの聖母」が鎮座していた。こんな大きなパソを何人で持ち上げるのだろかとか、ここに置かれては日曜日のミサはどうするのだろか、などと余計なことを考えながらマカレナの聖母をまぢかに見たのだった。いつもはるか遠くからしか眺めることのできなかったのに実際にこんな身近から見るなんて、と感慨めいたものが湧いてくるのだった。セビリャで最も有名なマカレナの聖母が通ると必ず要所で2階の窓からプロの歌い手がサエタ(歌矢)を投げかける。それは、音調からして宗教的な言いまわしとお祭りの言葉をまじえた、おそらくフラメンコ・カンテの原型のようなものであろう。
 またホテルの前の、ちょうどマカレナ教会と並んで、ローマ時代の城壁が目にとまった。実にどっしりとした頑丈そうな城壁である。1993年にセビリャ市が設置した観光案内パネルによると、「スペイン内戦(1936~39年)に、この城壁の背後に共和主義者たちが立て籠もった」とだけ記されている。立て籠もった彼らはその後どうなったのか。おそらく,セビリャの市民はあまり良く知らないであろう。それは、現在から70余年前の事件のための「記憶の風化」ということよりも、反共和主義を標榜する内戦の勝利者フランコ将軍の軍事独裁政権があらゆる国家的暴力装置を動員してスペインを「中世の異端尋問の国」へ逆戻りさせ、まさに国民に「記憶と歴史の抹殺」(Michael Richards, A Time of Silence : Civil War and Culture of Repression in Franco’s Spain, C.U.P.,1998)を強いたためであろう。

 セビリャで実際に起こったのは次のようである。
1936年7月17日、かねてからの噂の通り、北アフリカのスペイン領モロッコにおいて陸軍駐屯地で、当時の共和国政府に軍事グーデターが勃発した。これを合図として、翌日、スペイン本土の約50か所の駐屯地で同時にクーデターが起こる。セビリャでは、7月18日午前、税関警備司令官のケイポ・デ・リャーノ将軍が副官と3人の将校を従えセビリャに入り、そこの駐屯地司令官のビリャ・アブリル将軍の軍事反乱に対する優柔不断さに激昂して彼を逮捕し、全駐屯地の指揮権を掌握する。この日の正午までにセビリャの中心部分を手中に収める。一方、こうした動きを察知した労働者たちは身構え、ささやかな手持ちの武器や農具などで武装する。セビリャ放送局は彼らにゼネスト指令し、反乱軍に対する武力抵抗を訴える。しかし、午後8時、ケイポは放送局を奪取する。これ以降、内戦の終わるまで、ワインを片手にしたケイポは「ラジオ将軍」という仇名を頂戴するほどの、悪辣で、卑猥な、そして何より恫喝的なラジオ放送を続けたのだった。19日の段階では、ケイポ指揮下の反乱軍が支配する地区と労働者が支配する地区とは拮抗したままであった。20日なると北アフリカの外人部隊がはじめてセビリャに空路到着し、反乱軍側の戦列に加わる。ただちに、グアダルキビール川の対岸の労働者居住地区であるトリアナ(余談であるが、ここはロマ(ジプシー)たちの居住地区でもあり、フラメンコの揺籃の地でもある)への砲撃が開始され、そこは間もなく瓦礫の山となった。その後の白兵戦は反乱軍の圧勝であった。労働者側は最後まで抵抗し、一部の地区では、外人部隊は見つけたあらゆる男を路上に追い出し、そこで見せしめとしてナイフで殺害してしまった。信頼できる資料(ヒュー・トマス『スペイン市民戦争』都築忠七訳、みすず書房、1970年、Ⅰ巻、p。144)によると、セビリャで内戦勃発から数週間で殺された労働者は9000人に達したという。

 さらに、その後のセビリャはどうだっただろうか。
1937年4月、マラガで捕まったハンガリー生まれのユダヤ系イギリス人の作家アサー・ケストラーは、逮捕、投獄、死刑の判決、四か月のセビリャ中央刑務所での獄中生活、釈放といった体験を『スペインの遺書』(平田次三郎訳、ダヴィッド社、1951年。復刻再版、新泉社、1965年)にまとめた。この本の献呈に、4月14日に処刑された共和国分の無名の兵士「ニコラス」の名を記している。そしてケストラーの4月14日の日記にこう書かれている。

     この本は君に捧げられるのだ。それが君にとって何の足しになろう。君は生きているとしても読むことはできないのだ。だからそれ故に、読み書きを学ぼうと身の程知らずの願をもっていたが故に、彼らは君を殺したのだ。君や君と同じ数百万の人たちは、行く行く君たちに読み書きをおしえてくれるべき新しい体制を擁護するために古き武器をとって立ちあがったのだった。

別の日の日記から――

 一人の若い男が入ってきた。というよりはむしろ突っ込まれたのだ。扉はすぐ彼の後で閉じた。彼は壁によりかかって立ったまま、頭を前に垂れていた。彼のシャツは、すでに見馴れた例の通りだった。つまりぼろぼろで、血痕が付いているのだ。かさぶたやたんこぶのある傷だらけの頭や不安げな眼差しなども、既にぼくには馴染みのものであった。もの珍しいところも、この男の顔にちょっとあった。すぐには解からなかったが、解剖学上の不整合があるのだ。彼の下顎骨がはずれており、それがあべこべに差し替えられたふうで信じられない程歪んでいたのである。それを見たら、忽ち気分が悪くなった。


ローマ時代の城壁

 本書の後半部によると、セビリャ監獄で、毎晩毎晩「ソコロ(お助け)!」と哀願し、「マドレ(母さん)!」と絶叫するさまとその直後の不気味な銃声をケストラーは聞いていのだった。1日に20ないし30人の処刑があったという。明日の命も分らない日々を過ごす寄る辺なきケストラーは、幸運にも、共和国軍が捕虜にした反乱軍将校との「捕虜交換」で釈放され、英領ジブラルタル経由でイギリスに戻ることができた。
 こうして、セビリャは、内戦勃発のわずか3日後には、兵器と暴力による恐怖と沈黙に支配され、しかもこの窒息的状況は1975年11月20日の独裁者フランコ総統が亡くなるまで続いていたのである。
 ところで、話は全く異なるが、ぼくの今回のセビリャ再訪には、もっとも大きな目的がひとつあった。
 グアダルキビール川にかかるイザベラ2世橋(トリアナ橋)を渡ると、すぐ右手に大きなマーケットがあった。「インキシオン・メルカド(異端尋問市場)」と何ともおどろおどろしい名称であったが、確か1992年のセビリャ万博の前年に取り壊わされて、現在普通のマーケットに生まれ変わったのだった。そこからトリアナ地区が広がる。そして川に沿ってカステジャ通りが続く。懐かしいバール、中華料理屋、レストラン・・・下町のにおいがプンプンする活気のある街だ。どこからとなくフラメンコのカンテが流れていた、そういえばこの地区にたくさんフラメンコ・スタジオがあった。フラメンコ揺籃の地なのだ。カステジャ通りを少し行くと、右側に、鉄格子扉付きの、アンダルシア独特のパティオ形式の長屋がある。長屋という言葉しか思いつかないが、むかしの日本でよく見る長屋とは違う。ここに何軒が入っているのだろうか。かつてはセビリャ市が発行する絵葉書に選ばれたパティオだが、扉の外から眺めるのだが、今はその面影すらないようである。正面から一番奥まった右手の三階の家がぼくの目指す所であった。しかし、今回、ぼくはその家に入れないのだ。否、この道路に面している鉄格子の扉すら開けてもらえないのだ。なぜなら、その家の住人であった、ぼくの師である永川玲二先生がもう不帰の客となってしまっているからであった。現在、オートマチックになっている鉄格子の扉。呼び出し用の押しボタンが見当たらない。ええい、面倒だ、オーイ、と叫んだ。すると、扉の近くの2軒の家から老婆が2人出てきた、早速、ぼくは、永川先生の教え子で日本から来た、ぜひ先生の住んでいた家を見たいと伝えると、扉を開けてくれた。先生の家の壁に、日本語とスペイン語で「ここに、永川玲二教授が住んでいた」というプレートがかけられているはずだ。せめてその写真でもと思っていたが、このプレートが取り払われることになり、弟さんが受け取りにきたとその老婆の説明であった。現在、先生の家は、もう他人の手に移っているのであろう、外からブルーのシートがかけられ内装工事の真最中であった。道路に出るときは、ここのボタンを押してドアを開けてくださいと教えてくれた。
 先生が亡くなったのは、2000年4月22日、その1年前から北九州市立大学客員教授として1年間の研究を終えてセビリャに戻るのにしばらく滞在していた東京で急逝したのだった。
 永川先生は、ぼくの大学院時代からの先生であった。一番の思い出は、大学院の夏休みに、まだ黒部ダムができていなかった時に挑戦した登山だった。とにかく地図だけを頼りに、道なき道を掻き分け、沢を巻いたり登りつめたりしていると、後ろから超特大のキスリングを担いだ3人組が迫ってきた。聞くと早稲田大学山岳部員だという。内心ファイテングスピリッツが湧き上がるのを感じた。彼らとは抜いたり抜かれたりしているうちにいつの間にか先に越されてしまった。あっという間だったかもしれない。毎晩、沢のほとりでの野営地で、ブランディーを片手に永川講話が始まるからだった。何日かっただろうか。とうとう尾根にとっついたものの、おそらく予定オーバーだったのだろう、食糧は米と調味料だけ、それも相当少なくなっていた。先生はこうした状況に全く動じることもなく、ラジウス(携帯用の登山石油ストーブ)で米を何回も煮ると飯が増える、それに2000メートル以上の草は食えるのでその飯の中に入れるいい、と事もなげに言う。これが永川式延命法(?)かもしれない。何しろ、旧陸軍幼年学校、陸軍士官学校卒なので、たぶん、すでに体験済みであろうとぼくは納得したのだった。
 ところで、陸軍士官学校と言えば、先生は在学中に、近い将来ソ連が敵国になるだろうからロシア語を身につけようと勉強したという。スペイン内戦勃発1ヶ月後に生まれ故郷のグラナダでフランコ反乱軍に逮捕され、自らの墓穴を掘らされて惨殺されたアンダルシア生れの世界的な詩人で劇作家のフェデリコ・ガルシア・ロルカのロシア語訳の『ロルカ詩集』を翻訳したのであり、我が国に初めてロルカを翻訳・紹介したのは永川先生であった。もちろん、先生は、シェイクスピアが専門の英文学者であり、いろいろな英文学上の金字塔のごとき業績を残したが、翻訳不可能と言われたジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』(集英社、3巻本、1996年)を丸谷才一氏、高松雄一氏とともに翻訳したのだった。何年も前だったか、セビリャの自宅で先生は、浩瀚なドイツ語訳の『ユリシーズ』をぼくに見せてくれて、「ドイツの英文学者も結構勉強している。われわれと『ユリシーズ』の解釈がそう変わっていない。ただし、われわれは彼らより20年以上も前に仕事を終わっているが・・・」とニコニコしていた。
 先生はコロンブスを中心とするスペインの大航海時代の研究のためにセビリャに住んでいた。あのコロンブスたちが、はるか新大陸から大西洋を越え、グアダルキビール川を溯上して、最終帰着地であるセビリャに投錨したのだった。先生にとってセビリャは最適の場であったろう。自宅の屋上で川を望んでいたであろう。コロンブスの出身地である中世ジェネバ語の研究に専念したのだったが、コロンブスに関する著書はとうとう未完、と思われる。スペインに関しては、『アンダルシーア風土記』(岩波書店、1999年)は、ぼくたちスペインを研究するものに取って忘れ難い名著となっている。
 そして、2000年5月27日、法政大学の学生食堂で開かれた永川先生の「しのぶ会」には約100人ものかたがたが参集し、丸谷才一氏の追悼の言葉はこう結んでいる(『挨拶はたいへんだ』朝日文庫、2002年)。

 わたしたちは、生きてゆく途上で、ときどき初心を忘れ、冒険の意欲が薄れることがあります。さういふときに、まるで神話に出て来る放浪の王子のやうな彼の生き方、彼の面影を思ひ浮かべることは、自分を励まし奮い立たせるのに非常に役に立つたうな気がします。

 ぼくのセビリャ再訪は10年間の時の流れをしみじみと感じさせられる旅であった。それでも、これからも今までと違った気持ちで、「エル・チノ」と愛された先生の足跡を残したセビリャ、そしてトリアナ地区を訪れてみたいと思う。

川成洋
法政大学教授


永川先生のお宅(一番奥の右側)