Autor del artículo

Tetsuyuki Seki
関 哲行
せき てつゆき
1950年茨城県生まれ。上智大学大学院修了。流通経済大学社会学部教授。専門は中近世スペイン史。
主要著書:『旅する人びと』(岩波書店、2009年)、『スペイン巡礼史』(講談社現代新書、2006年)、『スペインのユダヤ人』(山川出版社、2003年)など。
現在、流通経済大学サッカー部長、関東大学サッカー連盟評議員会議長。

モデルとしてのスペイン・サッカー

  馬齢を重ねただけの中高年のサッカーファンである私にとって、南アフリカ大会での岡田ジャパンの決勝トーナメント進出は驚きであった。守備に脆さのあるカメルーン戦はともかく、組織的でフィジカルの強いデンマークを撃破できるとは想像すらできなかったからである。日本は伝統的にデンマークのようなチームを苦手としており、これを破りベスト16に残ったことは、日本サッカー史に記憶される快挙であろう。

 ワールドカップ・南アフリカ大会は、1889年に創設されたレクレアティーボ・デ・ウエルバ以来、121年の歴史を誇るスペイン・サッカーにとっても記念すべき大会となった。高さは日本代表とほぼ互角でありながら、華麗でスピーディーな攻撃、正確なパスワーク、安定した守備で相手を圧倒するスペイン代表が、延長戦の末に初優勝したからである。日本サッカーが目指すべき方向性を示した代表チームとして、われわれ日本人の脳裏に深く刻まれるに違いない。

 私事にわたって恐縮だが、私は現在、流通経済大学サッカー部の部長で、関東大学サッカー連盟の評議員会議長を仰せつかっている。流通経済大学のような地方私大が、名門・強豪のひしめく関東大学サッカー・リーグを制するのは容易なことではない。華麗で攻撃的なスペイン・サッカーをモデルとしながらも、そこに日本サッカーの伝統を融合させ、10年以上の歳月をかけて、学生たちを鍛えあげてきた中野監督の長期戦略の成果である。


流通経済大学サッカー部トップチーム
写真提供 : 流通経済大学サッカー部

 私の生まれ育った茨城県北部の日立市は、昔からサッカーの盛んな地方工業都市であった。サッカーが日常生活の一部に組み込まれ、DNAのように定着した地方工業都市という点で、日立市はスペイン北部の工業都市ビルバオを彷彿とさせる。いうまでもなくビルバオは、スペイン有数の名門クラブ・チーム、アスレティック・ビルバオを擁するバスク地方の中心都市である。アスレティック・ビルバオは、バスク人やバスク地方ゆかりの選手で組織された伝統的クラブ・チームで、1898年のクラブ創設以来、スペイン・リーグで8回、スペイン国王杯で24回の優勝を果たしている。Jリーグのチームすらもたない日立市とは比べるべくもないが、1968年のメキシコ・オリンピックで活躍した宮本と鎌田が、日立市の出身であったことは注目してよい。

 私がサッカーへの関心を強めたのは、1982年にスペインで開催されたワールドカップが直接の契機であった。当時、私は大学院生で、中世スペイン史を学ぶため、1981-82年にかけてスペイン北部のサンタンデール大学に留学していた。留学というよりも「遊学」で、ラジエーターの壊れたボロ車であちこち移動するのが、学生の本分と心得ていた。移動を専らとする「遊学生」の私にとって、ワールドカップは衝撃的であった。

 1975年にフランコが没するとスペインは、フランコ体制からの体制移行と民主化問題に直面した。地方自治や立憲王政をめぐって政治的対立が激化する中で、1981年、治安警察のテヘーロ中佐による国会占拠事件が発生した。その影響もあってか1982年の総選挙では、スペイン社会労働党が勝利し、フェリーペ・ゴンサレス政権が誕生した。スペインのワールドカップは、こうした歴史的転換期に、スペインの民主化を象徴する国際的イベントとして開催されたのである。

 イギリスとアルゼンチンの間で、フォークランド(マルビーナス)紛争が発生したのも、同じ1982年であった。アルゼンチンのガルチェリ政権は国内の不満をそらすため、アルゼンチン沖合のイギリス領フォークランド諸島を軍事占領した。サッチャー首相がイギリス軍を派遣したことから、大規模な軍事衝突に発展したが、1982年6月14日、イギリス軍がアルゼンチン軍を制圧し、フォークランド紛争は終結した。ワールドカップ・スペイン大会が開催されるのは、その前日の6月13日のことであった。

 ワールドカップ・スペイン大会にフォークランド紛争の余波が及ぶことは、避けられなかった。予選リーグでイングランドとアルゼンチンが、別々のグループに属していたとはいえ、騒然たる雰囲気の中でワールドカップが開始されたことは鮮明に覚えている。

 フォークランド紛争へのスペイン人の反応は、様々であった。同じスペイン語圏に属すること、スペインもイギリスとジブラルタル返還問題を抱えていることから、スペイン人の多くはアルゼンチンに同情的であった。ワールドカップは「武器をもたない戦争」といわれるが、ワールドカップ・スペイン大会はまさにその典型である。幸いなことにイギリスとアルゼンチンが、決勝トーナメントであたることはなかった。しかし、フォークランド紛争の記憶が生々しいだけに、対戦していれば不測の事態も十分に予想された。

 ワールドカップ・スペイン大会の決勝ではイタリアが西ドイツを破り、9大会ぶり3回目の優勝を飾った。得点王に輝いたのはイタリア代表のパオロ・ロッシであり、カメルーンが初出場した大会としても知られる。優勝を逸したものの、ブラジル代表にはジーコやトニーニョ・セレーゾが、アルゼンチン代表にはマラドーナ、フランス代表にはミシェル・プラティニなどが名を連ねていた。

 スペインは決勝トーナメントに進出したものの、西ドイツやイングランドと同一グループに属し、勝ち点1で敗退した。代表監督はウルグアイ出身のディフェンダーで、1957年にレアル・マドリードに移籍したホセ・サンタマリーアであった。ゴールキーパーには、アスレティック・ビルバオと並ぶバスク地方の名門クラブ・チーム、レアル・ソシエダーのルイス・アルコナーダ、サイドバックにはアスレティック・ビルバオのサンティアゴ・ウルキアーガが起用された。ミッドフィールダーのヘスース・サモーラもレアル・ソシエダーの選手であり、バスク地方のクラブ・チームに所属する選手が少なくなかった。

 流通経済大学の中野監督にとっても、ワールドカップ・スペイン大会は印象に残る大会であったという。中野監督は1980年に全国高校サッカー選手権を制覇した古河一高のキャプテンであり、サッカーの盛んな茨城県西部の地方都市で育った。サッカーの浸透した茨城県の地方都市、ワールドカップ・スペイン大会というキーワードが、私と中野監督をつなぐ結節点であるのかもしれない。忍耐強く組織的な日本サッカーの伝統に、安定した守備を前提としつつも、華麗で攻撃的なスペイン・サッカーを接合したとき、どのような「化学反応」が生ずるのか。「化学反応」を祈念して、足しげく神社仏閣に参拝するのが、サッカー部の「祈祷師」としての最近の私の日課である。

 4年後のワールドカップで日本代表が、決勝トーナメントを勝ち上がるには、克服すべき課題が山積みである。各国の代表チームはそれぞれの地域の歴史や文化の表象であり、それ以上でも以下でもない。日本代表は選び抜かれたプロ選手集団というだけではなく、全国のアマチュア・チームがモデルとするエリート集団でもある。こうした広大な裾野の上に日本代表が成立していることを、日本代表自身が強く自覚しなければならない。

 日本代表をワールドカップの準決勝や決勝に進出させるには、一部のサッカー・エリートの強化だけでは不十分である。日本サッカーの裾野を現場で支えている監督やコーチといった指導者と審判を、スペインのようなサッカー先進国に留学させ、最新の戦術・戦略を学ばせるとともに、実戦経験を積ませることが不可欠である。迂遠に思えるかもしれないが、長期的視点に立って、現場の指導者や審判を含めた日本サッカー全体のレヴェルを底上げし、グローバル化すること。これが唯一の方法であると確信している。サッカーを通じた「草の根」レヴェルの交流が実現すれば、日西関係も今まで以上に、より広範で緊密なものとなるに違いない。

関 哲行

中野雄二総監督
1962年東京都生まれ。法政大卒。1998年、流通経済大学サッカー部監督に就任。以後、総理大臣杯(2007年)一回、関東大学サッカーリーグ戦(2006,08,09年)三回制覇。
現在、流通経済大学サッカー部総監督、全日本大学サッカー連盟副理事長、流通経済大学社会学部教授。