Autor del artículo

Yo Kawanari
川成洋
かわなり よう
1942年札幌で生まれる。北海道大学文学部卒業。東京都立大学大学院修士過程修了。社会学博士(一橋大学)。法政大学教授。スペイン現代史学会会長。主要著書『青春のスペイン戦争』(中公新書)、『スペイン戦争ージャック白井と国際旅団』(朝日選書)、『スペインー未完の現代史』(彩流社)、『スペインー歴史の旅』(人間社)ほか。

「シリーズ ゲルニカをめぐる3つのエピソード」 そのⅠ ゲルニカ爆撃

2010年8月

 スペイン内戦(1936~39年)は、 「現代殺戮兵器の実験場」と言われたほど、多種多様な殺戮兵器が投入された。それは、第1次世界大戦にはありえなかった、敵陣営の戦意や士気をそぐために、とりわけ女性や子供といった非戦闘員をターゲットにする作戦は世界の戦争史においてもスペイン内戦が嚆矢であった。といっても、この作戦はフランコ反乱軍傘下のドイツ軍の十八番とするものであった。事実、1938年4月に展開された、ヴァレンシアとバルセロナを結ぶ地中海の共和国陣営の南北に伸びるベルト地帯を分断するための「地中海作戦」は、ドイツ軍の史上初の「電撃作戦」で臨んだのだった。もちろん、この電撃作戦で、4月5日の聖金曜日に地中海のビナロスに到達したフランコ軍はそこで復活祭のミサを挙げたのだった。実は、この作戦を指揮したのが、マドリード公使館付陸軍武官の守屋莞爾中佐であった。当時のフランコ陣営の新聞には「オペラチオン・デ・モリヤ(守屋作戦)」という言葉が躍っていたのだった。当時、日独同盟を強く推進していたのが陸軍であったこともうなずけるというものだ。
 この地中海作戦からほぼ1年前、フランコ軍はかねてから公言していたマドリード制圧ができず、北部戦線へ攻撃の目標を変更する。1937年4月26日午後4時30分から7時45分まで、フランコ軍傘下のドイツコンドル飛行軍団が、無防備なバスク地方の聖都ゲルニカに襲いかかった。
 使用された爆弾は、ドイツ軍側の史料によると、250キロ爆弾54発、50キロ爆弾158発、それに焼夷弾5948発であった。これこそ「絨毯爆撃」と言われるものであったろう。人口7000人ほどの町で、1654人の死者を出したといわれている。爆撃の翌日、バスクの新聞は、バスク共和国のホセ・アントニオ・アギーレ大統領の声明を載せた。大統領は全世界に向かって「スペインの叛乱軍に付いたドイツ機がゲルニカを爆撃し、何世紀にもわたり自由と民主主義の聖なる殿堂であった町を破壊した」と非難した(『バスク大統領亡命記――ゲルニカからニューヨークへ』狩野美智子訳、三省堂、1989年)。しかし、この声明を受けて、同じ夜に、フランコ軍はアギーレ声明を全面的に否定し、あろうことか、「ゲルニカ爆撃は、撤退するバスク軍の破壊行為による」と公式に発表したのだった。ゲルニカを制圧したフランコ軍はゲルニカ爆撃に関する緘口令を公布したために、犠牲者の数はいまだ正確なところ判明せず、しかもフランコ軍事独裁体制が続く間、「共和国軍(バスク軍)犯行説」が屹立することになる。
 それにしても、ゲルニカの惨事の第1報は、その夜急遽ビルバオからゲルニカに向かった4人の新聞記者によって世界中に打電された。その中で最も際立っていたのは、4月28日の『タイムズ』紙のジョージ・L・スティア記者の「ゲルニカの悲劇。空襲で町は破壊された。目撃者の証言」(4月27日ビルバオ発)であった。この速報記事は『ニューヨーク・タイムズ』にも同時掲載され、冒頭部は次のようである(アンソニー・ブラント『ピカソ<ゲルニカ>の誕生』荒井信一訳、みすず書房、1981年)。

 バスク地方最古の町であり、その文化的伝統の中心地であるゲルニカは、昨日午後、叛乱軍の空襲により全滅した。前線のはるか後方にあるこの無防備な町への爆撃は、きっかり3時間15分かかったが、その間3機種のドイツ機、ユンカ-スおよびハインケル爆撃機、ハインケル戦闘機からなる強力な編隊は、450キロ未満の爆弾とさらに推定3000発以上の2ポンド・アルミニュム焼夷弾を投下した。他方、戦闘機は屋外に避難した住民たちを機銃掃射するために、町の中心部上空に低空から侵入した。
 ゲルニカ全体は間もなく炎につつまれた。古代のバスク議会がいつも開かれていた議事堂と、バスク民族に関する豊富な文書館は焼けのこった。有名なゲルニカの樹、600年を経た枯れた古株と今世紀の新しい若木も無事であった。(以下略)

 このゲルニカの速報記事が、「世界中の新聞の第一面を独占する」には、それほど時間がかからなかった。また、ジュネーブで非軍事目標の爆撃と非戦闘員の殺戮を禁止する緊急国際会議が開かれたのだった。
 事実、このゲルニカ作戦を指導したコンドル軍団のリヒトホーヘン参謀長はゲルニカがフランコ軍の手に落ちた翌日、4月30日自らゲルニカを視察し、爆弾の成果を確認して、次のようにその日の日記にしたためている。これは、フランコ軍側が主張する「バスク犯行説」と全く対立する内容である(アンソニー・ブラント,前掲訳書)。
 住民5000人の町、ゲルニカは文字通り大地と化した。攻撃は259キロ(爆弾)と焼夷弾で行われたが、後者はおよそ三分の一.ユンカース第一飛行中隊が到着した時、すでに至る所に黒煙(3機出撃したVB部隊による)、もはや道路、橋、城外の目標を認めることができず、そこで市内に投下した。250キロはいくつかの家を倒壊させ、水道を破壊した。焼夷弾はそれまでばらまかれて、効果を発揮する時間があった。家の建築様式、瓦ぶきの屋根、木の回廊、木骨建築は完全に破壊した。――住民の大部分は祭日のために外にいた。その他の大衆は、始まった時すぐ町を見捨てた。一部は見つけた避難所で死んだ。――爆弾による穴が今だに見られるが、全くおそろしい。――町は少なくとも24時間にわたって完全に封鎖された。敵軍が退去する以外に方法がない場合には、それは戦勝をおさめるための絶好の前提であった。それはまさにわが250キロとE・C・B・I(エレクトロン焼夷弾)の収めた完全な技術的成功である。

 このゲルニカ爆撃を隠蔽しようとしたのはその下手人であるフランコだけではなかった。ちなみに、「いかなることになろうとも、ゲルニカに関する国際的な中傷は阻止しなくてはならない」と、当時のコンドル軍司令官リッペントロップ将軍宛の、1937年5月15日付けの命令書を出したのは、ヒトラーであった。
 しかしながら、果せるかなと言うべきか、リヒトホーヘン参謀長がゲルニカを視察した4月30日、ロンドンのアルバート・ホールで行われた国際連盟協会の会合で、急進的な国際法学者であり筋金入りの反ファシストであるフランス航空相のピエール・コットは、ほかの何人かとともにゲルニカ爆撃を激しく非難した。
 さらに、5月29日、国際連盟諮問人会は、すべての非スペイン人軍隊に内戦からの撤退を要求し、スペイン国内の非武装都市に対する決議を満場一致で可決した。

川成洋
法政大学教授