Autor del artículo

Keiko Ozaki
尾崎恵子
おざきけいこ
1984年10月31日生まれ。
兵庫県宝塚市出身。16歳のときに家族旅行でトレドに赴き、そこで目にしたエル・グレコの《聖衣剥奪》に衝撃を受ける。
現在大学で西洋美術史を専攻し、スペイン美術の研究を行っている。

「スペインのギリシャ人」

2010年11月

 ドメニコス・テオトコプーロス、後にエル・グレコと呼ばれた男がスペインの地を踏んだのは1576年、彼が35歳になった年だった。エル・グレコは1541年にギリシャのクレタ島で生まれた。27歳の時にヴェネツィアへ赴き、その後ローマを経てスペインに移住した。ギリシャで既に画家として活躍していたという記録が残されているものの、なぜ彼がギリシャからイタリアを経由してスペインに渡ったのか、はっきりした動機は分かっていない。仕事の口を求めてイタリアに赴いたものの、当地ではティツィアーノを始めティントレット、ヴェロネーゼら、名だたる画家が活躍しており、年若い異邦人の画家が入り込む余地がなかったために、パトロンを求めてスペインに移動したというのが最も有力な説である。しかし、もしこれが真実であれば、彼のスペインでの生活は、出だしから大きく躓いたことになる。

 スペインに渡ったグレコは、《神聖同盟の寓意》でフェリペ2世の歓心を得たものの、次に描いた《聖マウリティウスの殉教》で王の不興を買い、国王付きの画家となる事に失敗した。今日、この2枚の絵はマドリードの北にあるエル・エスコリアル修道院に収蔵されている。また、現代ではエル・グレコの傑作のうちの1つと数えられる《聖衣剥奪》の制作の際にも、作品の査定金額を巡り、注文主のトレド大聖堂と裁判沙汰を起こしている。国王とトレド大聖堂という、国内最大のパトロンを2つもしくじったグレコは、その後も注文主を相手に、金銭トラブルから来る裁判沙汰を幾度も起こす事になる。

 そもそも当時のスペインは、同時代、芸術の中心地であったイタリアと比較して、著しく画家の社会的地位が低かった。その上、1492年のレコンキスタ終了以降、スペイン国王がカトリックの教えを礎に、国家を統一せんと試みた事も、画家の地位の向上を送らせる一因となっていた。1547年から3度にわたって開かれたトレント公会議によって、「聖なる画像は、見るものに祈る気を起こさせるものでなくてはならない。」という取り決めがなされた後、1577年にトレド大司教に就任したガスパール・デ・キローガにより、トレント公会議に基づく対抗宗教改革の路線が強力に押し進められ、絵画の主題や図像などが大幅に制限されていったのである。画家が自らの裁量を発揮して絵を描くチャンスは極めて限られていたのだ。イタリアで、芸術家として高い地位を誇っていた画家達を目の当たりにしていたグレコにとって、スペインで絵を描くことは、大いなる困難を伴ったに違いない。

 しかし、グレコはスペインを離れる事は無かった。その後も、サント・トメ教会の《オルガス伯の埋葬》を始めとし、ドニャ・マリア・デ・アラゴン学院の主祭壇画と呼ばれる一連の祭壇画や、数々の肖像画、宗教画など多くの傑作をスペインの地で生み出している。グレコはスペインの地で、絵画に課せられた様々な条件を満たしながらも、暗い背景から浮かび上がるような人物描写や、うねりながら上昇する大気といった独特の表現を極めていったのである。イタリアで描かれたグレコの作品は、巧みではあるものの、どこかイタリア人画家の二番煎じを思わせる凡庸なものであった。しかし、スペインに渡ってからのグレコは、独自の画風を極限まで追求し、他の追随を許さない作品を生み出したのである。エル・グレコと聞いて、我々が思い浮かべるような作品は全て、スペインで生まれたのだ。グレコの画風の完成に、スペイン、特に彼の終の住処となったトレドと言う環境が大きな影響を及ぼした事は間違いない。20世紀の後半になって、元プラド美術館館長ハビエール・サラスによって、グレコの直筆の書き込みが残されたヴァザーリの『美術家列伝』が、フェルナンド・マリアースとアウグスティン・ブスタマンテによってグレコの注記の入ったウィトルウィウスの『建築論』が立て続けに発見された事により、グレコの画家としての思索の一端が明らかになった。しかし、スペイン、特にトレドと言う地が彼に及ぼした影響に関しては、これらの発見をしてもほとんど伺い知る事が出来ないのである。

 今日、トレドに赴けば、昔ながらの町並みと、入り組んだ小道の狭間に、古の名残を見つける事が出来るだろう。しかし、「ギリシャ人」と呼ばれた男がこの場所で何を見、そして何を考えたのか、今の我々にはただ思いを馳せることしかできない。

尾崎恵子


El Caballero de la mano en el pecho