Autor del artículo

Yo Kawanari
川成洋
かわなり よう
1942年札幌で生まれる。北海道大学文学部卒業。東京都立大学大学院修士過程修了。社会学博士(一橋大学)。法政大学教授。スペイン現代史学会会長。主要著書『青春のスペイン戦争』(中公新書)、『スペイン戦争ージャック白井と国際旅団』(朝日選書)、『スペインー未完の現代史』(彩流社)、『スペインー歴史の旅』(人間社)ほか。

「シリーズ ゲルニカをめぐる3つのエピソード」 そのⅠⅠ ゲルニカ爆撃の報道

2010年11月

 ゲルニカ後のフランコ反乱軍の軍事目標はビルバオの制圧であり、さらに国境の町イルンへと戦線を伸ばし、バスク地方の出入口を制圧・管理することであった。そのビルバオも6月19日に陥落し、共和国軍の北部戦線は崩壊した。崩壊したゲルニカやビルバオをフランコ軍側から取材し、フランス国境に近いサン・セバスティアンに辿りついた『東京朝日新聞(現・朝日新聞)』特派員坂井米夫記者は、その町でフランコ軍によって足止めさせられる。その時の様子を坂井は次のように述べている(『ヴァガボンド通信』改造社、1939年。復刻増補版『動乱のスペイン報告――ヴァガボンド通信・1937年』川成洋編、彩流社、1980年)。

   U・Pのパッカード君と「アバス」のドォスビダル君は一足さきにきていて「外人記者は国境を通さないと言っている。昨日からイルンに行ったり来たりしているようだが、どうしても駄目だ」と緊張して言う。(中略)ハースト系のニッカーボッカー君が投獄されたのもここで、その時もどうなるかわからなかったのをアメリカの記者団の奔走で辛くも釈放された。アメリカで人民戦線に反対していたのはハースト系新聞だけではないか。あの事件以来ハーストは革命軍側[当時、日本の新聞や雑誌といったジャーナリズムでは、フランコ軍を「革命軍」と呼称していた――川成記]に特派員を送らないのだ。(中略)晩餐をすまして出ようとする時、「そうだ! われわれが揃ってこちらにやって来たので、ひょっとすると検問なしの電報をサンジャン・ド・リュスあたりから出すんじゃないかと、とんでもない嫌疑をかけられているのかもしれない」と気の早いパッカード君はすぐサラマンカ政府[フランコ軍政府のこと――川成記]当局に打電だけでは心細いと夜半電話をかける。3日後の朝、国境通過許可書の電報が来るか早いか自動車を飛ばし、出国手続きを終わってイルンとフランスのアンダインの間にかかっている国境の橋を渡る。振り返ったら呼び戻されやしないかと、橋の中頃から知らず知らずに足が速くなって、フランスの土を踏んでも何だか夢のよう、ダロー君はそこらじゅう闊歩している。大きく呼吸する。「空気まで違ったようだ」「もう何も話しても心配ないよ」。税関の検査がすんで自動車に乗り込んだところへ、バッカード君が小走りにやってきた。「御機嫌よう!」「この次は上海で・・・」。シモカアの並樹道に自動車を停め、丘の上に登ってスペイン領を眺めていると、暗い雨雲がぐんぐん拡がってきた。

 このようにして、ゲルニカの爆撃を知った外国人新聞記者に対する身柄拘束を含む厳しい締め付けは、自陣の正統性を喧伝してもらうために外国人ジャーナリストを利用する「ジャーナリズムの戦争」と言われただけあったのだ。
 ところで、このゲルニカの惨事を伝えたスティア記者は、かねてからフランコ陣営の新聞報道担当官をもめ事が絶えなかったこともあって、即刻イルン経由でフランスに脱出した。
 当時『タイムズ』はスペイン共和国政府軍側とフランコ軍側の両方に特派員を派遣していた。フランコ軍の従軍記者だったスティアの後釜に収まったのが、フリーランスのキム・フィルビーであった。すでにKGBのスパイだったフィルビーはフランコ側で得た軍事情報をソ連に流していた。彼は、1937年12月、戦場ならではの、九死に一生を得る体験をする。テルエル攻防戦の取材中に共和国軍の砲弾攻撃を受け、同行した3人の新聞記者が即死し、フィルビーだけが頭部と手首に怪我をしたのだった。しかしながら、余談になるが、このテルエルの被爆事件は「実は仕掛けられた事件」だったと、後年『イヴニンゴ・スタンダード』紙(1991年10月21日付)が素っ破抜いた。この記事によると、もちろんこの事件の下手人は、フィルビー。彼の取材態度や行動に不審を抱き、彼がソ連に情報を流していることを突き止めたディック・シープシャンクス記者を殺害するために、「フィルビーが車の中に手榴弾を隠しておいて、それが爆発する寸前に自分が車から脱出した」のである。ちなみに、このことを証言したのは、スペイン内戦期、スペイン大使館に勤務していたトム・ダブリーンという外交官だった。フィルビーはすでに1988年に亡命先のモスクワで死亡しているので、この記事についての真贋の程は確かめ難いが(川成洋『紳氏の国のインテリジェンス』集英社新書、2007年)。
 翌1938年3月、フィルビーはフランコ総統から最高位の「赤十字軍功章」をじかに胸につけてもらう。これ以降、「フランコ総督に叙勲されたイギリス人記者」としてフィルビーはフランコ陣営で自由に取材できるようになり、1939年3月28日、フランコ軍のマドリード入城の記事を『タイムズ』に送りスペインでの従軍記者生活を終える。41年9月、フィルビーはMI6(イギリス海外秘密情報部)の第5部「イベリア半島」の部長に抜擢される。そして45年の年末、第2次世界大戦期の情報活動の功績に対して彼は、バッキングガム宮殿で大英帝国勲章(MBE)を授与される。さらに彼はMI6でとんとん拍子に出世し、MI6の対ソ防諜の責任者となり、アメリカの原子力開発の秘密情報をはじめ、アルメニア解放のためのCIAとMI6の共同作戦などさまざまな重要な極秘情報を事前にソ連に漏らしていたが、ついに「ソ連のモグラ」であることが見破られてしまい、「KGBの高級将校」としてソ連に亡命する。彼の処遇を巡って英米両情報部高官、イギリス下院で政府高官と議員の間で激論が飛び交うほどの「20世紀最大のスパイ」と言われたのだった(川成洋『紳氏の国のインテリジェンス』集英社新書、2007年)。
 一方、スティア記者は、後に『ゲルニカの樹』(1938年)という本を出版し、その中で次のように述べている。

      結局のところ、バスク人は少数民族で、銃も飛行機も対して持っていなかったし、外国からの救援も受けられなかった。・・・しかし彼らは、この痛ましい内戦のあいだずっと、人間性と文明の灯火を高々と揚げていた。捕虜を殺しもしなければ拷問もせず、捕虜の命を犠牲にして楽しむような真似は一切しなかった。もっとも残酷な状況にあっても彼らは自由な自己表現と信念を捨てなかった。彼らは几帳面に・・・隣人にもある程度の敬意を払うよう求めるように。・・・すべての法を遵守した。人質もとらなかった。彼らをあざむく連中の非人間的なやり方にも抵抗をもって応じるだけで、それ以上の何もしなかった。(後略)

 その後、第二次世界大戦の勃発に際して、アフリカとヨーロッパのファシスト軍の戦略を人々に警鐘し、最前線での心理戦にいち早く注目したスティア記者は、止むを得ずペンを捨て、イギリス陸軍の情報部将校になる。その後特殊任務部隊大尉としてビルマ戦線で日本軍と対峙する。日本兵に向けた「伝単」、拡声器による呼びかけなど、日本兵に対する投降工作を指揮するが、1944年12月25日、恒例の部隊内のクリスマス運動会のために、部下たちを乗せて運転中、事故を起こし即死する。享年35歳、あまりにも若すぎる死であった。その時彼が身につけていた時計は、バスク大統領ホセ・アントニオ・アギーレから贈られたもので、「バスク共和国よりスティアへ」と彫られていた(ニコラス・ランキン『戦争特派員――ゲルニカ爆撃を伝えた男』塩原通緒訳、中央公論新社、2008年)。
 ところで、すでに述べたように、「世界中の新聞の第一面を独占した」ゲルニカ爆撃は我が国でどのように報道されたのだったろうか。
 当時の『東京朝日新聞』は、スペイン内戦の報道だけで、4回も号外を発行するほどの報道体制であったが、何故か、このゲルニカ爆撃の報道を全くしていない(川成洋『30年代日本の新聞報道-スペイン戦争の受容と反応』、彩流社)。ただ、5月1日付けの『大阪朝日新聞』はほんの数行、しかも間接的な報道をしている。『大阪日日新聞(現・毎日新聞)』にも、同様な記事がある。6月20日付けの『大阪朝日新聞』には、フランコ軍の観戦武官だった西浦進陸軍大尉(当時)の「人命には想像するほどの脅威はない」という楽天的な談話を載せている。しかし、この西浦大尉のスペイン滞在は、1936年10月から12月までのほんの3か月弱に過ぎなかったのであり、翌年3月1日付けで陸軍省軍事課勤務となっている(木戸日記研究会編『西浦氏談話記録』日本近現史研究会)。したがって、彼はゲルニカの惨事を目撃したわけではなく、単なる推測を述べたにすぎなかったのだった。
 それにしても、我が国の3大全国紙がゲルニカの惨事をおざなりにしか報道していなかったのである。たとえその3大紙がスペインに特派員を送り込んでいなかったとしても、ロンドンやパリの支局から、あるいは当時の同盟通信から、あるいは提携している外国の大手の通信社から、ゲルニカの爆撃にニュースは入っていたはずである。事実、前記の坂井米夫記者はゲルニカの惨事とその後のフランコ側の対応を取材している。ただ断言できるのは、在欧の日本人記者がゲルニカ爆撃に気づかなかったはずがない。とすると、どこかでこの惨事を黙殺する、あるいは隠蔽する作為が働いたのであろう。おそらく、編集段階ではあるまいか、惜しむらくは、こうした姿勢が、当時の3大紙のありようだったのである。
川成洋
法政大学教授