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Yo Kawanari
川成洋
かわなり よう
1942年札幌で生まれる。北海道大学文学部卒業。東京都立大学大学院修士過程修了。社会学博士(一橋大学)。法政大学教授。スペイン現代史学会会長。主要著書『青春のスペイン戦争』(中公新書)、『スペイン戦争ージャック白井と国際旅団』(朝日選書)、『スペインー未完の現代史』(彩流社)、『スペインー歴史の旅』(人間社)ほか。

その3―ピカソの『ゲルニカ』の誕生とその波紋

 「シリーズ ゲルニカをめぐる3つのエピソード」

2011年02月

 スペイン内戦が勃発した時点で、直ちに共和国支持を明確にしたピカソは、1936年の8月以降、南フランスに滞在していたが、ゲルニカの惨事を知ったのは、その2日後の、1937年4月28日の夕方、パリであった。  このゲルニカの惨事に強い衝撃を受け、スペイン共和国政府から依頼されていたパリ万博のスペイン館用の壁画として、黒、灰色、白を基調とした楯3・8メートル、横7・8メートルの『ゲルニカ』を6月4日に完成させたのだった。これがスペイン館に展示された時、あまりにも強烈過ぎて、また優れて政治的意図を内包させていたこともあって、左・右の両陣営において、その評価をめぐって、ごうごうたる議論が巻き起こしたのだった。

 スペインの美術評論家ジャン・カスーはこう述べている(『ピカソの戦争――《ゲルニカ》の真実』ロッセル・マーティン著、木下哲夫訳、白水社)。

 ゴヤがピカソになって生き返った。それと同時にピカソはピカソとして生まれ変わった。この天才は自分自身の領域と永遠に縁を切り、自分自身の存在を否定し、その外部で生き抜こうとする巨大な野心を抱いてきた。それはまるで自らが棄てた空き家、自らが失われた肉体を見たいと狂奔する幽霊のようなもの。住処は再び見つかった。肉体と魂の両方をとりもどすことができた。おのれをゴヤと呼ぶすべてのもの、おのれをスペインと呼ぶものは再び一体化した。ピカソは祖国と再びひとつに結ばれた。


Guernika, Museo Reina Sofía (Madrid)


 『ゲルニカ』についての ピカソ自身の解説によれば、左の牛は暗さ、残忍さ、中央の馬は弱者、苦悩する民衆を表している。つまり、『ゲルニカ』は人間の悪と蛮行をピカソ独自の手法で描いた「現代の黙示録」というものであろう。

 スペイン内戦後、第2次世界大戦期もピカソはフランコ軍事独裁体制のスペインにもどらず、そのままパリのグラン・ゾーギュスタン街のアトリエを仕事場にしていた。絵画好きのドイツ軍将校がしばしばピカソのアトリエを訪れた。ピカソの友人ペンローズによると、ある将校が、ピカソのテーブルの上に一枚の「ゲルニカの写真」を見つけ、「これを作ったのは、あなたですか?」と尋ねた。するとピカソは「いいえ、これを作ったのはあなたたちですよ」と事もなげに答えたという(ベルナダック、ブーシェ『ピカソ』高階絵里加訳、創元社、1996年)。

 スペイン館で展示された後の『ゲルニカ』は、第2次世界大戦後、亡命中のスペイン共和国のプロパガンダとしてヨーロッパ各地で展示され、その後ニューヨーク近代美術館に「スペインに真に民主主義的な体制が実現するまで」という条件で、無期限貸与された。

 ピカソは不倶戴天の敵、フランコが死ぬ2年前の1973年にフランスのムージャンで亡くなった。

 1977年4月、「ゲルニカ爆撃41周年」と銘打って、ゲルニカから約30キロ離れたビルバオにあるデオスト大学が事務局となって、「ゲルニカ爆撃の学術調査委員会」が接置され、調査が開始された。

 この委員会は、ゲルニカ爆撃を研究しているスペイン内外の歴史家、社会学者、ジャーナリスト、法律家、政治学者などで構成され、同月23日、ゲルニカの議事堂で、デウスト大学のフェルナンド・ガルシア・コルサール教授を議長に報告とシンポジウムが行われた。その報告によると、ゲルニカ爆撃は、ドイツのコンドル飛行軍団を主力とする作戦であったという結論に達していたものの、その作戦遂行にフランコ将軍が法的に責任があるか否かという点を解明するために、政府の公文書館に保管されているフランコ側の公文書の公開を求め、委員会と政府の間で大論争を展開した。

 結局、政府は公文書の公開を拒否したために、フランコの法的責任が解明できずに、この委員会の学術調査を終了せざるを得なかったのである。

 そして、ピカソが死んで8年後の、1981年9月10日、ピカソ生誕100年を記念して、またピカソが主張する政治的条件を満たすことができたこともあって、『ゲルニカ』がようやく、「最後の共和国亡命者」として、厳戒下のマドリード・バラハス空港に到着したのだった。10月25日、ピカソ生誕100年祭が、彼の生まれ故郷マラガで、スペイン国王フアン・カルロス一世の臨席のもとに盛大に挙行された。この100年祭と同時に、プラド美術館別館で『ゲルニカ』が一般公開された。かつて、ピカソが館長に就任することになっていたが、スペイン内戦、そしてフランコ軍事独裁体制にために、就任できなかったプラド美術館であった。

 それにしても、このプラド美術館別館も安住の地ではなかった。18世紀の「サン・カルロス館」を大改造し、1992年9月10日に開館されたレイナ・ソフィア芸術センター国立美術館に移されたからだった。この移送に反対する声がバスク地方から湧き起った。その後、1997年10月の会館予定のビルバオのゲッゲンハイム美術館からの、開館に合わせて『ゲルニカ』の貸与を申し入れる。もちろん、絵画の貸出期間中は収入をレイナ・ソフィア美術館と折半すること、『ゲルニカ』の安全のために、レイナ・ソフィア側の担当者にこの間の管理を任せることなどを条件にするが、『ゲルニカ』の移送に傷がつくという理由で拒否される。これを受けて、グッゲンハイム美術館専務理事のフアン・イグナシオ・ビダルテは記者会見に応じてこう語った(『ピカソの戦争――《ゲルニカ》の真実』)。

 ゲルニカの破壊から数えて60周年を記念する催しは、バスクの人びとが20世紀美術を代表するこの作品を初めて故郷で目にする、歴史的な、二度と訪れることのない好機となります。・・・この拒否回答は、技術的な問題の枠を超えたものです。脆くて輸送に適さないなどと言うのは、わたしたちの知性を愚弄するものにほかなりません。わたしたちは作品を額におさめたまま、温度管理も可能な、作品保存に万全を期した車両によって輸送する綿密な計画を立てました。費用の問題ではありません。費用はすべて負担する用意がります。

・・・昔から、バスクの土地では、わたしたちは『ゲルニカ』はここに置かれるべきだと信じてきました。精神的面から、わたしたちには『ゲルニカ』の所有を主張する権利がある,わたしたちはそう感じてきました。しかしそれも昔話です。さしあたり一件落着、今『ゲルニカ』はマドリードにあります。

 また、ビルバオ選出ノバスク民族党下院議員イナキ・アナサカスティはこう述べている(上掲訳書)。

   マドリードの方々がもしバスク地方がスペインの一部であると新に信じているのであれば、なぜ『ゲルニカ』が、たとえ一時的にせよ、ここにあってはならないのでしょうか。なんといっても、ピカソがこの絵にあたえた名前は『ゲルニカ』であって、『マドリード』ではありません.それなのにきわめて尋常ならざる官僚的な手続きを踏むうちに、国民を代表する政治家ではなく、単なる専門家が、『ゲルニカ』が傷みやすいことを気づかう気持ちはよく分ります。しかし、考えてごらんなさい。現代は人類が月に行く時代なのです。『ゲルニカ』をゲルニカまで無事運べないはずがないではありませんか。

 結局、ゲルニカまで30キロと離れていないビルバオのグッゲンハイム美術館には『ゲルニカ』は展示されることはないであろう。それにしても、『ゲルニカ』がどうして生まれたのか、それを考えれば、プラド美術館別館ではなく、レイナ・ソフィア美術館に展示されるのはいかがなものか、と思うのは私ひとりではあるまい。
川成洋
法政大学教授