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Yo Kawanari
川成洋
かわなり よう
1942年札幌で生まれる。北海道大学文学部卒業。東京都立大学大学院修士過程修了。社会学博士(一橋大学)。法政大学教授。スペイン現代史学会会長。主要著書『青春のスペイン戦争』(中公新書)、『スペイン戦争ージャック白井と国際旅団』(朝日選書)、『スペインー未完の現代史』(彩流社)、『スペインー歴史の旅』(人間社)ほか。

スペインを愛した日本人-永川玲二

2011年02月

 永川玲二先生については、本誌、創刊号(p。6~7)の拙稿「セビリア再訪――その個人的な点描」で触れました。また、彼のスペインに関する著作としては、名著『ことばの政治学』(筑摩書房、1979年。再版、岩波同時代ライブラリー、岩波書店、1995年)、『アンダルシーア風土記』(岩波書店、1999年)が入手できます。

 今回、永川先生のあまり知られていないスペイン以前の側面を紹介したいと思います。

 1960年代末から70年代初頭のことになりますが、当時、私は東京都立大学人文学部英文科助手をしておりまして、助教授の永川先生とは“登山”とか“探険”などを通してちょこちょことお話しする機会があったぐらいでした。彼はとても忙しそうで,大学には出講日だけ研究室にちらりと姿を見せるくらいで、私も週3日か2日の勤務でしたので、私が先生と会えるのは、“登山”の予定を立てるときくらいでした。それも、先生のご自宅に伺っての打ち合わせが多かったように思います。

 ところが、あるときから(それがいつだったかは、定かではありませんですが)、先生の自宅が使えない、大切なお客さんがきているから、と実に曖昧ないい方をされたでのす。とうとう先生に“いい女性ができたのかな”と勝手に思って喜んでおりました。

 でも、そうではなかった!

 実は、先生は、ある活動をしていたのです。それは「ジャテックJapan Technical Committee for Assistance to U・S・Anti-War Deserters)」という活動で、当時ベトナム戦争反対の市民運動を展開し一時代を画した「ベ平連」と不即不離の関係を保ちつつ展開された運動でした。具体的に説明しますと、「ジャテック」が発足したのは1968年秋。それから1年間くらいで、当時、ベトナムの戦場から離脱したアメリカ軍脱走兵を一定期間かくまい、釧路港から日本漁船に乗せ密出国させ、ソ連経由でスウェーデンヘ向かわせる運動でした。この1年だけで、17名の脱走兵(途中脱落者1名を含む)を海外に逃亡させたそうです。


「来栖君」と永川玲二先生(右)、1970年、©AV-Project
出典:『私たちは、脱走アメリカ兵を越境させた・・・・』
(高橋武智著、作品社、2007年)


 「ジャテック」活動の集大成ともいうべき高橋武智著の『私たちは、脱走アメリカ兵を越境させた・・・・ベ平連/ジャテック、最後の密出国作戦の回想』(作品社、2007年)によりますと、1968年11月、出航を目前にひかえた北海道の弟子屈で、脱走兵になりすましたCIAのエージェントが忽然と姿を消し、同行していた正真正銘の脱走兵が逮捕されるという事件が起こりました。そのために、ソ連がこの脱出作戦から手を引き、今までのソ連経由ルートが使えなくなり、国外脱出の見込みのないまま、脱走兵を国内でかくまい続けることになったようです。おそらく、その頃なのでしょうか、永川先生が、脱走兵を自宅にかくまうことになったのは。

 「来栖君」というコードネームの、ジョン・フィリップ・ロウという名の脱走兵でした。「来栖君」は、永川先生宅に逗留している間に自伝的要素の濃い脱走兵小説『われらが歓呼して仰いだ旗』の執筆を始めるのです。この作品が、1970年6月の創刊号された文芸雑誌『すばる』(集英社)掲載され、以降7回にわたり連載されました。「この作品の刊行計画を立てたのも、翻訳をしたのも、英文学者でシェイクスピアの訳者としても知られる故永川玲二さんであった事実や――彼もまた来栖君をかくまった1人であり、創作にも助言を与えたにちがいない」と本書は述べており、さらに、「永川さんは来栖君にとって文学上の師匠であっただけでなく、人生の師匠であった」と付言しております。これは、まさに至言というべきでしょう。

 その後、「来栖君」の消息は、いかに?

 「来栖君」は、都内のホストファミリーを転々とすることになります。そして「ジャテック」のメンバーが入手したスウェーデンの何通かの旅券のうち、背丈、毛髪、その他身体的特徴が一致しているのを選んで、変造を開始します。写真の張り替え、写真にデコボコをつける型押し加工、羽田入国のスタンプ作成といった変造作業。出国は伊丹空港する。なぜなら羽田入国の偽造スタンプがばれるかもしれないから。しかし、入国スタンプの見本を入手するのが大変でした。日本人の羽田入国は、「羽田帰国」というスタンプとなっており、従って来日した外国人の旅券を使って「羽田入国」のモデル・スタンプを写さなければならなかった。ともかくこうした作業は、勿論、プロのデザイナーに依頼することになり、しかも口の堅い人でなければならなかったのです。こうして「来栖君」の旅券ができ、新幹線で大阪に向い、伊丹空港から、無事、パリ・オルリー空港に降り立ったのでした。1970年12月のことでした。結局、「来栖君」は2年間、日本国内に潜伏していたことになったのです。

 そのころ、というべきか、すこし時間的には前後しますが、都立大学も、大学闘争の真只中でありまして、大学当局の機動隊出動要請によって、とうとう機動隊が大学構内突入ということになりました。永川先生を始め10人足らずの先生方は学内に占拠していた学生に退去するよう説得し、自分たちが機動隊の前にピケットを張ったのです。もちろん、機動隊に即刻排除されました。それから永川先生は、大学に抗議するために辞表を提出し、横浜港から日本を離れ、セビリアで生活を始めました。

川成洋
法政大学教授