Autor del artículo

Yo Kawanari
川成洋
かわなり よう
1942年札幌で生まれる。北海道大学文学部卒業。東京都立大学大学院修士過程修了。社会学博士(一橋大学)。法政大学教授。スペイン現代史学会会長。主要著書『青春のスペイン戦争』(中公新書)、『スペイン戦争ージャック白井と国際旅団』(朝日選書)、『スペインー未完の現代史』(彩流社)、『スペインー歴史の旅』(人間社)ほか。

ゲルニカ再訪(1)
ゲルニカ異聞―その1

2011年5月

 この春休み、ゲルニカ再訪を果たすことができた。私が始めてゲルニカを訪れたのは、1983年の春休み、なんと28年も前のことになる。当時、確かビルバオからのバスはなく、電車だけだった。それも本当に信じられないほど運行本数が少ない。従って、知り合いの車で行くことにした。高速に乗れば30分くらいでゲルニカに着く。かつて、ゲルニカ爆撃の第一報を世界中に伝えた『タイムズ』紙のジョージ・スティア記者が他のイギリス人記者と一緒に車を飛ばした道は、すでに旧道となっていた。確かに、一介の旅行者にはゲルニカは不便なところであった。だから、その後ゲルニカに行かなくなってしまったのかもしれない。

 しかも、その時のゲルニカ見物は期待外れに終わった。まず、ゲルニカ爆撃で奇跡的の残った議事堂と樫の樹――ゲルニカの町全体を廃墟にした絨毯爆撃にもかかわらず、議事堂と樫の樹のみが残ったこと自体、軍事技術的に不可能であり、これこそまさに退却中のバスク共和国軍(共和国軍)の仕業だと、爆撃の2日後に地上軍を投入してゲルニカを制圧したフランコ軍がさかんに喧伝したのだった――を目指した。しかし、議事堂は外装工事のために中に入られず、樹齢500年といわれる樫の樹もその1部がケースに収められ、その議事堂の中に展示されているという。結局、議事堂に入らなければ、何もかも見られないのだった。それではとビルバオに引き返すのも悔しく、仕方なく、町の散策へと移る。といってもバスク地方の一地方の町に過ぎず、特段珍しものはなかったが、ただ、町はずれの共同墓地にひときわ立派な戦勝碑が立っていた。これには「フランコ将軍指揮下の“十字軍”に参戦し、神とスペインのために命を捧げた163名の英霊を慰める」と碑文にしたためられ、その兵士たちの名前が麗々しく刻まれていた。ゲルニカ惨事の7年後に、フランコ政権が建てたのである。内戦後、復讐に燃えるフランコは、1934年の「アストゥリアス十月革命」以降、共和国側だった者に対して、死刑を含む過酷な弾圧で臨んだために、市井の国民は沈黙せざるをえなかったのだ。フランコが殺戮した無辜のゲルニカの人びとの名もなき墓標を思うとき、こうした石碑は残酷の一言に尽きる。

 そして、28年ぶりのゲルニカは、実に、のびのびとした地方都市に変貌していた。ちょうど昼時であった。あちこちのバールでスペインならではの賑わいだ。腹ごしらえをかねてバスクの地ビールでも探そうと思ったが、先ずは行くべきところへ直行と思いなおしたのだった。

 先ず、「ゲルニカ平和財団博物館」。これは何時できたのであろうか。始めて訪れた1983年にはなかったように記憶する。この博物館のメインは何といっても2階にあるゲルニカ爆撃の展示室。第一次世界大戦では全く考えられなかった“敵の士気をそぐために、女性や子どもといった非戦闘員を狙い撃ちすること”が、スペイン内戦で最高の戦略として採用したフランコ軍傘下のドイツ・コンドル飛行軍団の爆撃は、スペイン内戦が終了して五カ月後に勃発した第二次世界大戦のリハーサルであったのだ。当時としては全く想像すらできなかったことを目の当たりにさせられたゲルニカの人びとは本当に怖れ慄いたであろう。この展示室のフロアーに厚いガラスが敷かれ、その下に当時爆撃された建物や道路の瓦礫が敷き占められている。もの言わぬゲルニカ爆撃の証言者である。


外観から博物館とは思えない「ゲルニカ平和財団博物館」


 フランスの詩人、ポール・エリュアールは「ゲルニカの勝利」という詩に、その悲しみと怒りを託している。

  死者たちの眼は深い恐怖の色をうかべ
  死者たちの眼は非情な大地の酷薄さをたたえ
  犠牲となった人たちは自分の涙を飲んだ
  毒のように苦い涙を    (以下、略)

   ほかの展示室は、現在の「平和」を模索する様々な活動、それはともすれば人類の愚行の葬列ともいうべき戦争の歴史でもあるのだが。こうした展示物を見ていると、ともかくわれわれは、戦争を体験しなければその対極にある平和に到達できないのかもしれないと思われるのだ。かのアリストテレスが「戦争の目的は平和である」の言葉も今さら真実味が帯びてくる。そういえば、ヨーロッパの70年代、80年代の反核・反戦運動には、“ゲルニカ・ヒロシマ・ナガサキ”の文字がいつもプラカードに書かれていた。

 この博物館のモットーは“決して忘れず、復讐もせず”である。これは、至言であるが、実際の場面でどうであろうか。ちなみに2006年7月18日、「2006年 歴史記憶の年宣言」法が公布された。この法律がスペイン内戦勃発70周年の日に発効することなり、こうした内戦の傷をいやす「和解と共生」の試みは遅々としているが、進んでいるように思えるという評価もあるが、その逆の評価もあるようだ。ともかく、スペイン人の相互に許し合う心の深さと分裂・対立を避ける賢明さを信じたいものである。

 いつだったか忘れたが、たしか80年代後半だったと思うが、都市単位、町単位で、「内戦、およびフランコ体制下の共和派の犠牲者」の氏名と死亡したと思われる年月と場所を載せている本をバルセロナの大型書店で見かけたことがあった。この本はシリーズもので、同じカバー表紙で、どのくらいの本が並んでいたであろうか、相当量だったと思う。とうとうここまで来たか、だがこれでは、なかなか両者の「和解」は進捗しないであろうと思った。そういえば、昨年、『朝日新聞』の国末憲人特派員が取材した、フランコ軍に殺害された元共和派の発掘現場の記事「独裁化の罪 追及と反発――スペイン・フランコ政権の虐殺」(2010年10月1日刊)が掲載された。それによると、「遺族らの遺骨発掘と真相究明の自主的な運動が10年ほど前から各地に広がり、確認された遺骨は4千体にのぼる。・・・(中略)・・・独裁終了から30年以上たったスペインでも、実態解明が進みつつあるが、まだ市民団体などによる試みが中心だ。政府を挙げて取り組むには、乗り越える課題が山ほどある」と結んでいる。同様に昨年、アルバセーテの「国際旅団友の会(AABI)」から同じような発掘現場の写真がメールで送られてきた。それにしても、内戦が終わって、もう70年余り過ぎてようやく犠牲者の遺体が発掘されるとは・・・。このことは、スペイン人の歴史家、研究者による「スペイン内戦通史」がまだスペイン国内に上梓されていないことと関係があるように思える。現在も、スペイン現代史研究はイギリス、アメリカの著名なスペイン内戦史家の著作をベースにせざるを得ないのである。もちろん、軍事独裁者フランコ将軍が亡くなり、外国から見ると、いわゆるフランコ流の「皇国史観」から脱却してもいいと思えるのだが、内戦という同胞相克し血で血を洗った過去に向き合うのが容易でない、これが本音なのかもしれない。

川成洋
法政大学教授



ゲルニカ議事堂