Autor del artículo

Yo Kawanari
川成洋
かわなり よう
1942年札幌で生まれる。北海道大学文学部卒業。東京都立大学大学院修士過程修了。社会学博士(一橋大学)。法政大学教授。スペイン現代史学会会長。主要著書『青春のスペイン戦争』(中公新書)、『スペイン戦争ージャック白井と国際旅団』(朝日選書)、『スペインー未完の現代史』(彩流社)、『スペインー歴史の旅』(人間社)ほか。

ゲルニカ再訪(2)
ゲルニカ異聞―その1

2011年08月

 この博物館を見学した後に、議事堂に向かった。都合よく開館時間に間に合った。こぢんまりとした議事堂だが、議場はイギリスの下院ように正面の議長席を中心に左右に向かいあうような議席になっている。おそらく与党と野党に分れるのだろうか。議席は約4~50席、数からからすれば、我が国でいえば市議会くらいかもしれない。(写真①)


写真① ゲルニカの議事堂
(Gernikako Batzarretxeaより)


 この議事堂の裏側の部屋が「ガラスの間」といわれている。ガラスといっても、天井いっぱいにステンドグラスになっており、大きな樫の樹の後方に議事堂(写真②)、その樫の木の前に立ち大きな聖書を抱える長老、それに見上げる農耕の民、海洋の民、鉄鋼の民の姿が描かれている。実に見事な、堂々とした絵柄であり、これこそバスクの歴史をこのステンドグラスがくっきりと象徴しているのである(写真③)。この部屋の展示物もバスク国民の古代からの歴史が展示されている。その中で圧巻は、やはりバスク共和国の樹立とアギーレ初代大統領の就任式である。


左:写真② 議事堂 ガラスの間
(Gernikako Batzarretxeaより)



右:写真③ ガラスの間・天井のステンドグラス
(Gernikako Batzarretxeaより)


 1936年10月1日、スペイン内戦の戦況激化のため、マドリードからバレンシアに首都を移転したスペイン共和国政府は、バスク人の長年の宿願であったバスク地方自治を承認した。これはフランコ軍の未占領地域の、ビスカヤ県全域と一部のギブスコヤ県だけであったが、ともかく、ようやく「バスク共和国」が誕生したのである。「国」としての独立への悲願を持ち敬虔なカトリック教徒であるバスク人にとって、自治を容認するが非カトリックを標榜するスペイン共和国側につくか、自治や独立は認めないがカトリック擁護を全面に掲げているフランコ側につくか、いずれにせよ、自治とカトリック教会という二律背反の中での辛い選択であった。結局、バスクはスペイン共和国側につく方を選んだのだった。同年、10月7日、弱冠32歳の弁護士アギーレがバスクの伝統に従って、大統領に就任した。ホセ・アントニオ・デ・アギーレの『バスクの大統領亡命記』(狩野美智子訳、三省堂)によると――

 アラバ・ギプスコア・ナバラはすでに敵の手に落ち、ビスカヤも敵の軍隊に取り囲まれていた1936年10月7日、バスクの古都ゲルニカに召集された人民の代表会議で、私はバスク共和国大統領に任命された。ヨーロッパでいちばん古いこの国が、この日から32歳の大統領を持つことになった。・・・(中略)・・・ゲルニカの樹の下で、私は任務を果たすことを誓った。ゲルニカの樹は大地に根を張り、枝々は大空に広がり、民族の精神と民族の主権の不滅の証人として立っていたのだった。・・・(中略)・・・私は高らかに誓いのことばをバスク語で宣べた。
神のみ前に、敬虔に
バスクの大地に立ち
先祖の思い出とともに
ゲルニカの樹の下で誓います
私の任務を忠実に果たすことを


 アギーレ大統領の「バスク共和国」は、その誕生から苦難の途を歩まねばならなかった。その悲劇的なクライマックスは、言わずもがな、ゲルニカ爆撃である。
 このゲルニカ爆撃(1937年4月26日)後、既述したように、破廉恥にも、フランコ軍が「バスク犯行説」を発表する。これに対して、アギーレ大統領は全世界に向かって次の談話を発表する(ホセ・アントニオ・デ・アギーレ、前掲訳書)。

 われわれを裁き給う神と歴史の前に、私は断言する。3時間半にわたってドイツの飛行機が、いまだかつてない残忍さで、ゲルニカの歴史の町の無防備な市民たちに、爆撃を加え、ゲルニカを廃墟となし、恐怖で逃げまどう婦人たち子どもたちに機関銃で追い撃ちをかけた。

 ゲルニカの爆撃に続き、ビルバオが陥落(6月19日)する。その2ヵ月後の8月、バスクを占領したフランコ軍が開いた欠席裁判で死刑の判決を受けたアギーレは、妻と2荷の幼い子供を連れて、間一髪、フランスへ亡命する。亡命先でも、アギーレはフランコにとって「アカ」よりも危険な人物であった。というのも彼はカトリック教徒としてフランコの「十字軍」の正当性を「ウソだ」きっぱりと告発し続けていたからである。彼を見つけだしてフランコに引き渡し、死刑を執行させたいと血眼になっているフランコ側のエージェントがたくさんいたのだった。その後第2次世界大戦の勃発、フランスの降伏、彼はパナマの農園主「ホセ・アンドレス・アルバレス・ラストラ法学博士」と変装し、ドイツ占領下のベルギーでの潜伏、最後はなんとベルリンを経由して戦時のヨーロッパを脱出し、リオ・デ・ジャネイロに到着する。こうして第2次世界大戦をアギーレ一家は辛くも生き伸びたのだったが、1960年、彼は56歳で急死する。
 さて、ゲルニカの樹は、その根がついているのかどうかわからないが、古樹として、議事堂の庭にしっかりとした鉄筋コンクリートの蔽い付きの中に収められている。その2世というべき若樹も同じ庭に植えられている。(写真④)


写真④ ゲルニカの樹、若樹
(Gernikako Batzarretxeaより)


 ところで、内戦勃発の1ヵ月後の8月19日払暁、フランコ軍に自らの墓穴を掘らされて銃殺された詩人で劇作家のフェデリコ・ガルシア・ロルカの親友であり、彼と同じく、ゴンゴラ三〇〇年祭を主催し、ゴンゴラ回帰を実践した「27年の世代」詩人の一人、ラファエル・アルベルティは、1974年、詩集『ピカソ――途切れざる光』の中で「ゲルニカ」を発表している(『マチャード/アルベルティ詩集』大島博光訳、土曜美術社出版販売)

 ・・・・自由のもっとも鋭い叫びを、きみは『ゲル
ニカ』によって挙げた。自由は、残虐さと卑劣さを
もって虐殺されて、横たわっていた。きみを駆っ
てその死を告知させ、あのしかけられた戦争を、
ただやめさせるという目的だけで非難させたのは、
自由なのだ。
   怒りに燃えて告発し
   きみは天にまでおし挙げた きみの慟哭を
   断末魔の馬のいななきを
   そしてきみは 腕を切り落とされた母親たちから
   怒りの歯を抜きとった
   きみは地面に並べて見せた
   斃れた戦士の折れた剣を 
   えみが割れた骨の髄と
   皮膚の上をぴんと張った神経を
   苦悶を 断末魔の苦しみを 憤怒を
   そしてきみじしんの驚愕を
   ある日きみはそこから生まれてきた
   きみの祖国の人民を
それらすべてを、きみは『ゲルニカ』と
名づけた・・・


 こうして、私のゲルニカ再訪は終わった。28年前に見た「フランコの戦勝碑」どうなったのか、ビルバオに戻るバスの都合で時間的余裕がなく、確認できなかった。フランコ体制が終わってスペインの民主化・社会化が進むにつれて、フランコ時代の残滓のようなものは次第に除去されてきているからでる。かつてスペイン中どこでも堂々としたフランコの立像や内戦勝利の碑、内戦期からフランコ体制期の唯一つの政党であるファランヘ党のシンボルマークの5本の矢など、マヨール広場のようなたくさん人が集まるようなところに刻み込まれていたが、いまや全く見当たらない。またファランヘ党の創設者で初代党首だったホセ・アントニオ・プリモ・デ・リベラ通りといったような、内戦期のファシスト、右翼の大物の名を冠した道路も改名されているので、わざわざ共同墓地に行くまでもなかろうと思ったからでる。
 幾分高い所に位置する議事堂あたりから町を見わたすと、何とのどかで平和な町だろうか、と誰でも思うに違いない。
 かつて、18世紀のフランスの思想家ジャン・ジャック・ルソーが「ゲルニカには地上で一番幸せな人びとが住んでいる。聖なる樫の樹の下に集う農民たちが自らを治め、その行動は常に賢明である」と喝破したが、ルソーのこの言葉を現実のものにするには、ほぼ2世紀の歳月と多大な尊い犠牲が必要だったのである。

川成洋
法政大学教授