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Shoji Bando
坂東 省次 (ばんどう しょうじ) 
京都外国語大学スペイン語学科長・教授。京都セルバンテス懇話会代表。 専攻はスペイン語学、日西交流史。 近著に『スペインを訪れた日本人ーエリートたちの異文化体験』(行路社)がある。

今から400年前に津波を見たスペイン人

2011年08月

 3月11日、東日本を襲った巨大地震、その後に発生した津波は、東北地方の多くの人々をのみ込み、想像をはるかに超えた爪痕を残していった。

 2006年に死去した作家吉村昭の記録文学『三陸海岸大津波』(文藝春秋)が東日本大震災以降、増刷を重ねているという。明治29年、昭和8年、そして昭和35年に三陸沿岸を襲った大津波を題材にした作品だ。しかし、三陸はもっと以前から津波に襲われていた。今から400年前の1611年12月2日、越喜来(おつきらい、現岩手県大船渡市)一帯を大津波が襲っている記録が残されており、それを初代スペイン大使として来日していたセバスティアン・ビスカイノが海上から目撃し、それを自らの記録に残しているのである。

 セバスティアン・ビスカイノ(Sebastián Vizcaino)は、1551年にスペインのウエルバ(Huelva)州の州都ウエルバで呱々の声をあげている。1567年にポルトガルの反乱鎮圧の戦に参加した後、ヌエバ・エスパーニャ(現メキシコ)に渡り、1586 年から89年まではフィリピンに滞在する。その後、バハ・カリフォルニアの探検に従事した後、1604年にはメキシコからフィリピンに渡航するスペイン艦隊の司令官に任ぜられる。

 スペインと日本の出会いはフランシスコ・ザビエルの来日(1549年)に遡るとされるが、両国の間で最初の外交交渉が交わされたのは、1609年のことである。日本は徳川家康の時代、スペインはその植民地を中南米を越えてフィリピンにまで拡張していた。1609年7月25日にフィリピンを出港して、メキシコへの帰国途上にあった臨時総督ロドリゴ・デ・ビベロ乗船の帆船サン・フランシスコ号は暴風雨のため、9月30日に上総国の岩和田に漂着・難破した。ビベロをはじめ多数の乗員は村人に救助され、ビベロは江戸城で徳川秀忠と、また駿府では家康と謁見し、これがスペインと日本の最初の外交交渉へと展開することになる。

 その後、ビベロ一行は、1610年8月1日、ウイリアム・アダムス建造のサン・ブエナベントゥラ号で帰国すると、ヌエバ・エスパニャ第11代副王ドン・ルイス・デ・ベラスコは、ビベロ一行の救助と送還に対する答礼使を、日本近海にあると古くから伝えられていた「金と銀に富んだ島々」の測定を兼ねて派遣することになり、初代スペイン大使としてビスカイノが送り出された。1611年3月22日のことである。

 ビスカイノは1611年6月22日に秀忠と、同7月4日には家康に謁見している。そして両者への謁見の間の6月24日、ビスカイノは江戸で伊達政宗と邂逅しており、これが東北訪問の契機となったのである。

 ビスカイノの報告によれば、11月8日に仙台に着き、まず政宗を訪れて歓待される。正宗の厚遇を得て、15日から仙台藩の沿岸の測量を開始し、20日間ほどかけて現在の仙台湾、石巻湾、牡鹿半島、雄勝湾、気仙沼湾、そして越喜来まで北上している。

 ビスカイノは12月2日に越喜来において大地震と大津波に遭遇したことを記録に残している。それは慶長16年10月28日に陸奥で起こった大地震と大津波のことであり、伊達藩における溺死者は5千人を数えたと伝えられる。
その日のビスカイノの報告は次の通りである。

 「金曜日(12月2日)我等は越喜来の村に着きたり。又一の入江を有すれども用をなさず。此処に着く前住民は男も又女も村を捨てて山に逃げ行くのを見たり。是まで他の村々に於いては住民我等を見ん為め海岸に出でしが故に、我等は之を異とし、我等より遁れんとするものと考え待つべしと呼びしが、忽ち其原因は此地に於て一時間継続せし大地震の為め海水は一ピカ(3メートル89センチ)余の高さをなして其堺を超え、異常なる力を以て流出し、村を侵し、家および藁の山は水上に流れ、甚しき混乱を生じたり。海水は此間に三回進退し、土人は其財産を救う能はず、多数の人命を失ひたり。此海岸の水難に依り多数の人溺死し、財産を失ひたることは後に之を述ぶべし。此事は午後五時に起りしが我等は其時海上に在りて激動を感じ、又波濤會流して我等は海中に呑まるべしと考えたり。我等に追随せし舟二艘は沖にて海波に襲はれ、沈没せり。神陛下は我等を此難より救い給ひしが、事終わりて我等は村に着き逃かれたる家に於て厚遇を受けたり。」(『ビスカイノ金銀島探検報告』)

 幸い、ビスカイノ一行は海上にいたおかげで命びろいし、その夜は津波の被害をまぬかれた家に宿泊している。

 ところで、伊達政宗はスペイン人との出会いから、メキシコとの直接通商交易に関心を抱き、1613年、日本最初の通商外交を展開するべく、正使のフランシスコ会宣教師ルイス・ソテロと副使の支倉常長とから成る「使節団」をメキシコ経由でスペインに送り出した。同年10月28日、ソテロと支倉に加えて150名の日本人を乗せた「サン・フアン・バウティスタ号」はメキシコに向けて宮城県牡鹿郡月の浦を出帆した。ビスカイノもこの船に便乗してメキシコに帰り、1615年にアカプルコで死亡したといわれる。

 月の浦のある石巻市は、1971年にチヴィタ・ヴェキア市と姉妹都市協定を結んだ。市民レベルでの交流が始まり、同市のカラマッタ広場に支倉常長像が建立される中で、サン・フアン・バウティスタ号の復元事業が開始し、同船の復元後の1997年には月の浦に宮城県慶長使節船ミュージアム(通称サン・フアン館)が開館する。同船はサン・フアン館のドックに係留された。2009年までの入館者は130万人を超えたといわれる。

 今回の地震と津波によって、ドックは壊滅したが、木造船は幸い一部の損傷だけで救われたという。2013年はサン・フアン・バウティスタ号が使節団を乗せて宮城県を出帆してから400年目の記念の年に当たる。昨年は625頁に及ぶ浩瀚な『仙台市史 特別編8 慶長遣欧州使節』が刊行され、2年後には400周年記念祭が予定されている。サン・フアン・バウティスタ号が東北復興のシンボルとなることを祈りたい。

 参考文献
  松田毅一 『伊達政宗の慶長使節』新人物往来社、1987年
  五野井隆史 『支倉常長』吉川弘文館、2003年
  村上直次郎訳注 『ビスカイノ金銀島探検報告』改訂復刻版、雄松堂書店、1966年
  西田耕三 『セバスチャン・ビスカイノ 金銀島探検記』耕風社、1998年

坂東 省次



慶長使節船「サン・ファン・バウティスタ」(復元)
宮城県慶長使節船ミュージアム蔵