acueducto.japon facebook acueducto.japon facebook



spainryugaku.jp

Temas:




Autor del artículo

Shizuka Shimoyama
下山静香
桐朋学園大学卒。文化庁派遣芸術家在外研修員としてスペインへ渡り、マドリード、バルセロナで研鑽。スペイン各地に招かれリサイタルを行い、「スペインの心を持つピアニスト」と賞される。ラジオ、テレビ番組に多数出演、これまでに多くのCDや書籍をリリース。現在、スペイン・中南米音楽を含む多彩なレパートリーをもつピアニストとして活発な演奏活動を展開。またクラシック界において、翻訳・執筆・講演・舞踊とマルチにこなすユニークな存在として注目を浴びている。

Official Website サラバンダ
http://www.h7.dion.ne.jp/~shizupf

裸足のピアニスト・下山静香のブログ 
http://ameblo.jp/shizukamusica
カザルス ~創造と抵抗の音楽家~

2011年08月

 スペインには、神様がたくさんいる。えっ?スペインはカトリックの国なのだから、神様は1人だけなんじゃないの?・・・いやそもそも、神を「1人」と数えるのか妥当なのかどうか?―― そういうムズカシイお話への脱線はこの際しないことにして、本題に入ることにしよう。
 世界に名だたる天才芸術家の宝庫スペインは、きら星のごとき名演奏家の宝庫でもある。なかでも「神様」と呼ばれる存在、それがパウ・カザルスとアンドレス・セゴビアだ。チェロとギター、それぞれ異なる楽器の偉大なマエストロであるこの2人の共通点は、「演奏史上の革新者」であること、そして「人間的な音」の持ち主ということだろう。人間的な音、とひと口で言ってしまうのは簡単だけれど、それは一朝一夕に創られるものではない。例えばカザルスの奏でるカタルーニャ民謡《鳥の歌》には、どれだけの祈りや慟哭や、愛が込められ ―― そしてそれらは、どれほど重い歴史を背負っていることか。そうでなければ、ある一地方の素朴な民謡が、世界中の人の心にこれほど深く刻まれることはなかったのではないだろうか。

 正直に告白すると、「カザルス」はあまりにも神格化されているがために、私は最近まで、その存在に微妙な距離をとって接していたような気がする。自己分析すれば、グレン・グールドが唸りながら弾いているバッハを子供時代から"普通に"愛聴していたにもかかわらず、大人になってみたら周りのインテリゲンチャ(*子供の頃の私は、この言葉を"インテリ・ゲンちゃん"だと思っていた)誰も彼もがグールド崇拝者なので、何だか簡単には同調したくない気がするというのに似た、実に子供じみた天邪鬼精神の現れかと思われる。しかし、本質とは演奏そのものにあるのだから、自分自身の感覚はそういった周辺の「現象」に影響されるべきではないのが本来である。そしてやはり、ひとたびカザルスの演奏を聴けば、好みや傾向などもまったく超越して"持ってかれてしまう"自分がいるのだった。また、常に完璧に、やすやすとチェロを操っているようにみえるカザルスは、実は極度の緊張症。どんなに演奏経験を重ねても、まるで初舞台のようにあがってしまう。演奏会の後は、終わってしまった自分の演奏を一音一音反芻して、なかなか眠りにつけない・・・。そこまで繊細な感性が、あの神がかった、堂々たる演奏を生むのだ。そう思うとなんだか安心するような、ひれ伏したくなるような、不思議な気持ちになるのである。

 そんな伏線があり、久しぶりにバルセロナに滞在していた折、ふと、カザルスゆかりの地を訪れてみようという気になった。バルセロナから電車で1時間の小さな町エル・ベンドレル(カタルーニャ語ではアル・ベンドレイ)と、そこから3キロほどにある海岸地区、カザルス記念館のあるサン・サルバドル。その2か所を一日で回ることにした。ベンドレルにある彼の生家はガイドつきで公開されていて、一つ一つ部屋をめぐりながら、当時のカザルgス一家の慎ましい生活ぶりを説明してもらえる。カザルスの母ピラールはプエルト・リコからこの町にやってきた女性で、教会のオルガン職人/奏者・ピアノ教師をしていたカルロスと出会い結婚。夫妻は多くの子宝に恵まれたものの、次々に病気で失い、残ったのは1876年生まれの2番目の息子パブロ(パウ)と、2人の弟だけだった。幼いカザルスにとって"お気に入りのチェロ"だった、父がヒョウタンに弦を張ってつくった楽器。4歳から弾き始めたピアノもある。案内してくれた女性によれば、「カザルスは、お父さんからは音楽を、お母さんからは思想を受け継いだのでしょうね」とのこと。母ピラールは、スペイン植民地政策下末期の故郷プエルト・リコで、父親と兄を亡くしている。2人とも自殺だった。ピラールの両親はスペインからの移住者だったため生活には恵まれていたが、宗主国の苛酷な地域支配に対する批判派としてスペイン軍側と対立、追いつめられた結果の悲劇だった。そのせいもあるのか、彼女は戦争や軍国主義に反対する徹底した民主主義者だったようで、カザルスの民主主義に対する強い意志は、この母の影響が確かに大きいと言える。しかし付け加えれば、父も自由主義、共和制の熱心な信奉者だった。カザルスの生き様の礎は、きっとこの頃から培われていたのだろう。

 カザルスは、11歳半ばで母とともにバルセロナへ出て以降、マドリード、ブリュッセル、パリと転々としながら苦難の多い10代を送った。その後も各地を移り住んだカザルスだが、1919年、定住を望んで故郷カタルーニャに戻ってくる。そして、国内外を演奏で飛び回るかたわら、バルセロナに自身のオーケストラを設立して精力的に活動するなど、カタルーニャの音楽界のために心血を注いでいた。
 しかしスペインの政局は混迷を極め、やがて、1936年7月18日が・・・カザルスの、スペインの、そして多くの人々の運命を変えてしまうことになる日がやってくる。その朝、モロッコでの軍事蜂起のニュースが報じられ街は不安に包まれていた。そんななか、カタルーニャ音楽堂に集まったカザルス・オーケストラは、翌日に予定されていた「人民のオリンピック」開会祝典のための最終リハーサルを行っていた。この人民オリンピックとは、ナチス・ドイツ主導のベルリン・オリンピックに対抗して、バルセロナで開催が計画されていた「もう一つのオリンピック」だった。祝典での演奏曲目は、ベートーヴェンの《第九交響曲》。啓蒙主義を掲げたシラーによる『歓喜頌歌』をテクストとし、これまで、記念すべき歴史の節目や平和を讃える場面で幾度となく演奏されてきた音楽だ。カザルスとそのオーケストラにとっても、スペイン共和国と新政府の樹立・カタルーニャ自治政府発足を祝う祭典(1931年)において第4楽章を演奏し喜びを分かち合った、特別な意味を持つ存在となっている・・・。そこへ、カタルーニャ自治政府の文化大臣の使者が駆け込んできた。カザルスに渡された手紙は、人民オリンピックの開催中止と、反乱軍暴動の危険がここにも迫っているため直ちに全員を帰宅させるように、との大臣のメッセージを伝えるものだった。
 もう、こうして一緒に演奏する日は来ないかもしれない・・・。彼らは万感をこめて《第九》の最終楽章を演奏し、市街戦に備えてバリケードが築かれ始めた通りを急ぎ散っていったのだった。

 その後、カザルスは文字通り東奔西走して演奏活動を行い、その収益を内戦犠牲者のために充て続けた。しかし反乱軍がいよいよバルセロナに迫った1939年1月、間一髪のタイミングで彼はスペインを脱出する。亡命先としてアメリカからの誘いもあったが、彼が落ち着いたのはピレネーのすぐ向こう側、フランスのプラドだった。そこから、劣悪な環境での収容所生活を余儀なくされた難民たちへの援助活動を続けた。そんなカザルスの一日はいつも、ピアノの前に座りバッハを弾くことから始まった。バッハの音楽は、当局のブラックリストに載り監視されていた彼が心を保てる薬のようなものだったのかもしれない。それから机に向かってペンを取り、1通1通手紙を書く。多くの組織や団体に窮状を訴え支援を呼びかけ、また、助けを求めて彼のもとに届く手紙すべてに返事をしたためていたという。

 第2次世界大戦終了後、フランコ独裁を国際社会が認知しその体制が安泰となったことに抗議してカザルスがとった行動、すなわち「政治」と「音楽」二重の意味での亡命についてはよく知られている。「チェロと指揮棒が自分の武器だ」と言っていた彼が、「演奏しない」ことを武器にして闘い始めた。この「ストライキ宣言」のインパクトの大きさは想像に難くない。その姿勢は、演奏家としてのカリスマ性も相まって熱烈なカザルス・シンパを生んだが、その広がりは良いことばかりだったとは言い切れないだろう。例えば、愛弟子だったガスパール・カサドが自分と同じ道をとらなかった、そのことに激怒して一時期は師弟の絆を断ってしまったこと、それが周りを巻き込んで結果的にカサドの演奏活動が阻害されてしまったことに関して、様々な見方・考え方があるのは事実である。しかし、私は2人とも、みずからの良心に従って行動していたのだと思っている。カザルスにとって、政治的信条と自分の活動を矛盾させないことが音楽家としての、ひいては人間としての真っ当な生き方であったし、一方カサドは「政治よりも音楽」の人・・・音楽を心から求める人がいるところには、出向いて演奏するのが音楽家の使命と思っていたのだと。
 カザルスの頑なともいえる姿勢に異論のある人もいるかもしれない。しかし、彼の中では音楽と生き方が完全にリンクしていると、誰もが理解できるはず。そして何よりも、演奏に対する命がけとも言える姿、実際の「音」と「音楽」が、彼の真実を語っているのではないだろうか。

 サン・サルバドルのカザルス記念館。当初は夏の別荘として建てられ、その後カザルスの憩いの家として様々な人が集い、コンサートが開かれ、内戦末期のバルセロナ陥落直前には市から避難してきた人々でいっぱいになったという館だ。私はベランダから、すぐ目の前に広がる美しい地中海をずっと眺めていた。抜けるほど青い空の下にまっさらな、眩しい砂浜。海辺の強い風が、椰子の木を揺らし続けている。こんなにいい陽気なのに、人の気配がまったく感じられない風景はどこか奇妙で、一瞬、自分がまるでマグリットの絵の中に入りこんでしまったような感覚にとらわれた。再び人心地つくことができたのは、さっきまで館内で聴いていた、カザルスの奏でるバッハが耳に甦ってきたときだった。

 音楽家は神の言葉を伝える巫女のようなものだ、とよく言われるけれど、カザルスの音楽はむしろ、血の通った人間としての「魂の言葉」なのだと思う。

「音楽は、それ自体よりももっと大きなもの ―― ヒューマニティの一部でなければならない。・・・」
(『パブロ・カザルス ―― 喜びと悲しみ』より)

 カザルスのチェロは今も、それを雄弁に語っている。

文・写真  下山静香


カザルス生家の内部



カザルス記念館



ベンドレルのカザルス像