〜カルメラ・グレコ
 フラメンコに捧げる人生〜

2012年02月

 午後8時、大阪のとある有名レストランの入り口で、まばゆいばかりに輝くカルメラ・グレコが時間どおりに我々を待っていてくれた。控え目な装いに、リボンで結わえた髪が印象的だった。そばには名だたるギタリストであるミゲロンが、楽しい夜の集いにわくわくした様子で付き添っており、実際にとても素敵な夕べのひとときとなった。

 カルメラ・グレコはこれまでの人生をフラメンコ一筋に捧げてきた女性である。幼少のころから音楽そして動きの表現にどっぷりつかって、様々な学校で生徒として学びながら、双方の芸術の完成度に磨きをかけてきた。そして現在はフラメンコの先生として活躍している。

 この世界的に有名なフラメンコダンサーは、多才な芸術家ホセ・グレコの娘でもある。ホセ・グレコの経歴をたどると、彼が父親そして先生として否応なくカルメラに影響を与えたことがわかる。それが原点となって、カルメラのアーティスト人生が作られており、すでに多くの成功を築き上げている。



Carmela Greco





アクエドゥクト(以下A): なぜ踊り始めたのですか?

カルメラ・グレコ(以下C): みんなが私にその質問をしますね。マラガのトーレ・デル・グレコの別荘で夏を過ごしていた子供のころの話です。私の父はスペイン舞踊の歴史に名を残した第一人者で、たえず音楽と結びついた生活をしていました。朝は早起きして音楽をかけ、その音楽をどこにでも持ち込みました。家中はもちろん、自分のスタジオやお庭やどこへだって。畑ではトマトを摘みながらマヌエル・デ・ファリャを聴いていましたよ。あちこち動き回るものだから、あらゆる場所にスピーカーをつけて。インスピレーションを得るのに音楽が必要だったのでしょう。そんなふうでしたから、私も音楽というものがわかってきたのです。よく草原に座って音楽を聴いていました。なんてすてきな音楽なの、と感じながら。

 私は夢見がちで想像力いっぱいの女の子でした。ですから、少し風があるときには聴こえてくる音楽と葉っぱの動きを同時に合わせようとしたりして楽しみました。あるいは階段をゆっくりと降りながら、ものすごく悲しい出来事を想像して音楽に合わせて無理やり泣こうとしたりなどしていました。

 ほかに大好きだったのは、スプリンクラーがまき散らす水の下を、雨が降っている気分で歩くことでした。しずくを垂らしながら音楽に合わせて散歩し、そしてお話を考え出していたのです。

 変わった子ですよね。今もですけど(笑)。私は孤独が好きなのです。ひとりでいることが多かったので。でも全く平気でした。音楽の中に自分の世界を見つけたのです。でも一番の発見は音楽を通じて自分が動けるということでした。私にとって音楽はそれほど入りやすいものでした。

 速いテンポの音楽では、楽しい!と感じて跳びまわり、悲しい音楽のときは、泣きのモードに。本当に涙が出ていましたよ。音楽が感じさせてくれるもの、その直感に私は従い、そこから動きを感じることを実際に覚えていったのです。踊りということでなく、動き。自分の生活の中で動くという表現は欠かせないものでした。音楽を介した動きです。

 翌年、そのマラガの夏の別荘で父のダンスカンパニーはリハーサルを始めたのです。そこにはアントニオ・デル・カスティーリョもいたし、フアン・マヌエル・マタと奥様で国立バレエ団のバレリーナ、アナもいました。ファルーコとその息子も。

 静かにしていること、何もしないことを条件に、私も練習の初日から部屋に入れてもらえました。でも無理でしたよ。私はずっと音楽に合わせて走ったり跳んだり泣いたり歩いたり観察したり・・もう止まりませんでした。そしてその年突然、その音楽に合わせて踊る人がいるということがわかってしまったのです。うっとりするような動きでした。腕を交え、くるくる回って、カスタネットを鳴らして。そうすると父が言ったのです。「もうおしまい。この子はリハーサル室に入っちゃだめだ。仕事にならないよ。」そして私は踊りたいという決意をはっきりさせたのでした。


Carmela Greco de niña









Torre del Greco





私の人生を予感させる出来事
 10歳のころ、踊りとは別に一番私の興味を引いたのはカスタネットでした。身体の一部じゃないのにこれを使って音を出せるの?なんてすごい。すばらしいわ。カスタネットが欲しくなりました。
 父がスタジオから出てくるたびに後ろをついていき、
-パパ、カスタネット買って、ねえ買ってよ。
-うるさいなあ。いま時間ないよ。
-ねえ、カスタネット!カスタネット!
 あまりに私がしつこいので、父は壊れたカスタネットをくれました。でも音は鳴ったのです。その夏はカスタネットの夏でした。それを持って海に入ったり、シャワーを浴びたり、一緒に寝て、また一緒に起きて・・・はずすくらいならごはんを食べないほうがまし!
 夏が終わるころにはカレティーリャ(小指から人差し指まで連続的に動かして鳴らす音)ができるようになっていたのです。
 ある日、練習室のドア越しに何時間も座り込んで音楽を聴いていたら、父が出てきました。
-パパ、パパ、私もうカスタネット鳴らせるわよ。
-そうかい?見たいな。
カレティーリャをやってみせると、彼は驚いて言いました。
-カルメラ、違うよ。
-なにが?
-カレティーリャは違うほうの手でやるのだよ。右手でね。
 そのとき私は父に向ってどんな文句も言えたでしょうが、ただこうとだけ言いました。
-ああ、そうなの、別の手ね。じゃあ右手でやってみるわ。
 そしていかにこれから自分が進もうとする道が険しかろうと、それに挑戦していくという意欲を父に見せたのでした。


José Greco y Lola de Ronda






Actuaciones de Lola de Ronda








A: ご両親、つまりホセ・グレコ氏とイサベル・デ・ロンダさんに対して、ご自分の決意をどう伝えたのですか?


C: 素晴らしいクラシックバレリーナだった母は、私がフラメンコを踊りたいと言うと、明らかに嫌な顔をしました。スペインでは、フラメンコがよく見られない時代があったのです。低俗で俗悪、卑しい階級層のイメージがあり、品のないものでした。

 父はフラメンコに対しては別の考えを持っており、正当な評価をしていました。庶民や地方出身の友達がいたからではないでしょうか。だけれども、大学に入るまでは勉強をするようにと私に言い渡しました。フラメンコダンサーではなく、デザイナーにでもしたかったのでしょう。

A: しかしお父様はダンサーだったじゃないですか。

C: 父はただのダンサーだったわけではなく、アメリカ合衆国の4つの大学で名誉学位を持っていました。王室の紳士十字団の称号も有していましたし、6ヶ国語を操り、美術に関する経歴があり、衣装のデザインは自身でこなすし、劇場の装飾デザインも手がけていました。まさに本物のアーティストだったのです。

 いろんな分野で仕事を収めていますが、その中でもフラメンコは最高のものでした。マティルデ・コラル、ラファエル・エル・ネグロ、ファルーコ、パコ・デ・ルシア、ペペ・デ・ルシアなどの才能が開花したフラメンコを世に広めました。

 それでも自分の子供たちがプロとしてフラメンコを踊ることを望んではいなかったのです。そして今、その理由がわかるのです。この職業は報われないし犠牲を伴うのです。利点よりも不都合なことのほうが多い。ただ、利点と欠点を比べたとき、利点のほうがとても大きく感じられるのですよね。




José Greco


「アメリカでは石を持ち上げると、その下にいる虫でさえも私の父を知っている」

・ホセ・グレコはダンサー、アントニオとカルメン・アマヤとともに、アメリカ大陸にフラメンコを紹介しました。
・数々のテレビ番組に出演し、ディズニーのショーにも協力しました。
・俳優としてハリウッドに進出。映画Ship of Fools(「愚か者の船」)への出演や、「八十日間世界一周」でカンティンフラスやデヴィッド・ニーヴェンらと共演しました。
・雑誌ヴォーグの表紙モデル
・ケネディー大統領やフランク・シナトラをはじめ、ハリウッドの偉大な俳優たちと親交を深める。




José Greco


父の援助なしで・・

13歳:プロのダンサーになりたいと宣言する。
16歳:学業をあきらめ、舞踏に専念する。
18歳:結婚して一男をもうける。
24歳:兄とともに自身のカンパニーを立ち上げる。


そしてある日、コラル・デ・ラ・モレリアで・・・

 突然父が現れ、私たちはほとんど口がきけませんでした。その日、兄と私はコラルでのゲストアーティストだったのです。舞台に立ち、大変な精神的プレッシャーを感じながら、これまでにないほどの踊りを披露しました。私たちが父に伝えたかったことの一語一句を体の動きにこめて踊ったのです。
 踊りが終わるとすぐに、父のところへあいさつに行きました。彼はとても感動した様子でした。「ああ、わが子どもたちよ。ものすごくよかったよ。」イタリア人みたいにとてもオーバーな表現でした。
 そして私たちは同じテーブルにつきました。
「お前たち、すっかり一人前のアーティストになったのだね。この職業を目指した決意をとくと見せてもらったよ。君たちの援助をしよう。望んでいたものを勝ち取ったのだから。昔はそうしなかったが、今こそ君たちに道を開けてやろうじゃないか。」
 私は尋ねました。
 「なぜ昔はだめだったの?」
 するとこう答えました。
「昔援助していたら、今のようなアーティストにはなれていなかったと思うよ。本物のアーティストになるためにはもがき苦しまなきゃ。なんでも簡単に手に入るようじゃあだめなんだよ。」
 そのときから、私たちは父と一緒に仕事を始めました。アメリカでたくさんのツアーを行い、NYブロードウェイの最高の劇場でも盛大に迎えられました。父のカンパニーは私たちが入ることでより知れわたり、アメリカを席巻しました。つまりホセ・グレコの名が伝説的なものとなったのです。今の私があるのも、父のおかげ、父の姓を受け継いだからだと言えます。




Carmela Greco





A: プロとしてフラメンコはあなたにどういう利点をもたらしているのでしょう。

C: 舞台に上がって動きを通じて思いを伝えるというのは、子供のころから憧れていたことです。観客が拍手をし、価値を認め、涙ぐむとき、私は幸せを感じます。彼らに近づく道を見つけた気になるからです。
もう一つの利点は、旅をしていろんな文化を知ることができることです。ヨーロッパやアメリカ各地、日本にまで来るチャンスがあったわけですから。
 さらには、自分が楽しむことで食べていけるというのは大変運がいいと思います。


A: なぜフラメンコは日本でこれほど受け入れられたのでしょうか。

C: 日本とフラメンコには接点があるのです。日本人はとても繊細な国民です。顔の表情には現れなくても、心の中には完全な宇宙が、そして火山が存在します。フラメンコというのは一つの表現方法であり、表現を通じて心の内部のものが引き出され、魅了されてしまうのです。
 日本人はフラメンコ好きです。はじめてフラメンコをみると衝撃を受け、興味がわいてくるようですね。フラメンコの道を進もうとする人は、もう離れられなくなります。日本人の生徒さんの中には、30年以上続けていらっしゃる方もいますよ。
 まだフラメンコをよくご存知ない方には、一度クラスを受けてみられることをお勧めします。おもしろいかもしれませんよ。職業レベルにまで高めたいなら、それもすばらしいことです。ただの趣味としてやるなら、これ以上いいエクササイズはありませんよ。日本にいるたくさんの素晴らしいフラメンコアーティストを通じて、ぜひフラメンコの世界に触れてみてください。血液の循環にとてもよいだけでなく、姿勢を正しくしたり、背中をストレッチさせる効果もあります。緊張をほぐし、感情を表現しやすくなります。また多くのカロリーが燃焼され、美しい体が作られます。まさに身体と精神にとって本物のセラピーですよ!


A: 日本との出会いはいつでしたか?

C: 日本に来ましたのは、人生の中でもかなりつらい時期だったのです。父が亡くなって悲嘆にくれていたときでした。私はこの国で半年間を過ごすことに決めたのです。というのは、父のことを思い出すものがなにもない唯一の土地だと思ったからです。実際そうとはなりませんでしたが。
 しかし、その半年間は非常に充実し、調和にあふれ、あまりに平和で美しかったため、私は父の死を乗り越えることができました。心地の良いあちこちの場所で穏やかな光の中を散歩するのは、大きな喜びでした。しかも人々が親切で礼儀正しいこと。自然があり、緑豊かで、木々にあふれ、すべてが美しくて特別に感じました。食べ物の盛り付けまでもがどれほどきれいだったか!
 人生で一度きり、私は自分の居場所を見つけました。ですから私は日本を愛しているのです。感情的なことなのです。日本に住むことで私は父に近づいて、涙を流さずに彼のことを思い出し、気持ちを落ち着けることができたのです。


我々はすばらしく楽しかった夕食の席に感謝をしながら、カルメラとお別れの挨拶をした。戻ってから、我々の意見が一致したのは、その格別な人柄についてだった。彼女は人の心を揺さぶるような女性であるということ。控え目な振る舞いやその芸術と魔力、いずれにも我々は強く印象づけられ、彼女が発した言葉を何度も頭の中で反芻させたのだった。「日本で私は自分の居場所を見つけたのよ。」なんとうれしくなる言葉だろうか。



アレハンドロ・コントレラス
Alejandro Contreras

Fotos: Carmela Greco ©

翻訳:飯塚美穂
Traducción: Miho Iizuka

Agredecimientos a la
Escuela de Flamenco Miguelón


Carmela Greco cenando
con Kaname Ikemoto,
Miguelón y Alejandro Contreras




CARMELA GRECO, UNA VIDA DEDICADA AL FLAMENCO

2012年02月

 A las ocho de la tarde nos esperaba puntualmente a la entrada de un conocido restaurante de Osaka, la deslumbrante Carmela Greco, vestida de manera discreta y con el pelo recogido con una cinta. Miguelón, el afamado guitarrista, le acompañaba deseoso de pasar una previsible velada emocionante, como así fue.

 Carmela Greco ha dedicado su vida al flamenco. Desde su infancia estuvo rodeada e inmersa en música y movimiento, artes que perfeccionaría formalmente en diferentes escuelas como alumna. Actualmente, Carmela es asimismo profesora de flamenco. La bailaora de reconocimiento mundial es además hija del polifacético artista José Greco. Rememorando su biografía, irremediablemente Carmela invoca a su padre, como padre y como maestro; la base sobre la que construirá toda su carrera artística en la que tantos éxitos ha cosechado.

Acueducto: ¿Por qué empezaste a bailar?

Carmela: Es la pregunta del millón, la que todo el mundo me hace. Fue de niña, durante los veranos, que pasábamos en la finca Torre del Greco, en Málaga. Mi padre, uno de los grandes bailarines que ha dado la historia de la danza española, vivía en continua unión con la música. Se levantaba muy temprano por la mañana y ponía música, y esa música la llevó a toda la casa: a su estudio, al jardín, a todos lados; estaba en el huerto cogiendo tomates y escuchaba a Manuel de Falla. Había colocado altavoces en todos los sitios porque daba grandes paseos y necesitaba la música para inspirarse. Así, empecé a descubrir la música. Muchas veces me sentaba en el llano y la escuchaba, ¡qué música tan bonita!

Yo, que era una niña muy soñadora y muy fantasiosa, me entretenía intentando juntar el sonido de la música con el movimiento de las hojas cuando hacía un poquito de aire. O imaginaba tener una pena muy grande y me forzaba a llorar con la música mientras bajaba lentamente unas escaleras.

Otra cosa que me encantaba era andar entre el agua de los aspersores como si fuera lluvia, me paseaba con las gotas y con la música; ¡me imaginaba unas historias..!

Era muy rara, todavía lo sigo siendo (risas). Me gusta la soledad porque muchas veces he estado sola. No me importaba, yo encontré mi mundo dentro de la música, pero mi gran descubrimiento fue que podía moverme a través de ella; para mí, la música era tan fácil.

¿Momentos de música rápida? ¡Alegría!, yo saltaba. ¿Momentos de música triste? ¡A llorar!, y lloraba. Lo que la música me inspiraba, lo hacía; y ahí es donde empecé verdaderamente a sentir el movimiento. No estamos hablando de baile, sino de movimiento. El movimiento era imprescindible en mi vida, movimiento a través de la música.

Al año siguiente, la compañía comenzó a ensayar allí, en la casa de verano. En ella estaban Antonio del Castillo, Juan Manuel Mata y su mujer Ana, que ha sido bailarina del ballet nacional, Farruco y su hijo.

Me dejaron pasar a los ensayos desde el primer día a condición de que me quedara quieta y no hiciera nada. Eso fue imposible. Yo corría, saltaba, lloraba, andaba o miraba, siempre con la música. Y de repente ese año descubrí que había gente que bailaba con esa música. Se movía de una manera que a mí me fascinaba, los brazos, las vueltas, los palillos… Entonces mi padre dijo: ¡Se acabó, esta niña no puede entrar aquí porque no podemos trabajar! Y yo decidí que quería bailar.

Un anuncio de lo que iba a ser mi vida…

Lo que más me llamó la atención con 10 años, aparte del baile, fueron los palillos. ¿Algo que no pertenecía al cuerpo con lo que se podía hacer ruido? ¡Qué maravilla, eso era fantástico! Yo quería unos palillos.

Cada vez que mi padre salía del estudio, yo iba detrás:
-Papá dame unos palillos, dame unos palillos
-Déjame ahora Carmela, no tengo tiempo
-Unos palillos, unos palillos

Ya aburrido de oírme me dio unos palillos que estaban rotos, pero sonaban. Ese verano fue el verano de los palillos. Me metía en el mar con los palillos, me duchaba con los palillos, dormía con los palillos y me levantaba con los palillos. ¡No quería comer para no quitármelos!
Casi acabado el verano fui capaz de hacer una carretilla (repiqueteo, movimiento que ha de hacerse desde el dedo meñique hasta el índice).
Un día, sentada escuchando durante horas detrás de la puerta del estudio donde practicaban, vi pasar a mi padre.
-Papá, papá, ya sé tocar los palillos
-Ah ¿sí? A ver, enséñame
Hice la carretilla y sorprendido dijo:
-Carmela, ¡está mal!
-¿Por qué?
-La carretilla es con la otra mano, con la derecha.

En este momento yo le habría dicho a mi padre cualquier impertinencia, pero solo exclamé:
-Ah, ¿con la otra..? ¡Pues voy a empezar con la otra!

Y así le demostré que, por muy difícil que fuera mi camino, yo lo iba a intentar.

A: ¿Cómo se lo comunicaste a tus padres, José Greco e Isabel de Ronda?

C: Mi madre, que ha sido una bailarina clásica maravillosa, se llevó un disgusto cuando le dije que quería bailar flamenco. Hubo una época en España en la que el flamenco estaba muy mal visto porque era bajo, de garitos, de gente mala; no era de clase.
Mi padre tenía otro concepto del flamenco, tenía el concepto real porque era amigo de los pelaos, de los farrucos. Sin embargo, me obligó a estudiar hasta antes de entrar en la universidad, quería que fuera diseñadora y no bailaora.


A: Pero ¡tu padre era bailarín!

C: Mi padre no era un simple bailarín, era honoris causa en cuatro universidades de Estados Unidos, tenía la Cruz de Caballero del Rey, hablaba 6 idiomas, tenía la carrera de Bellas Artes, hacía sus propios diseños de vestuario, también diseños de decorados del teatro, era un artista.
Trabajó muchos géneros; lo mejor, el flamenco. Llevó flamencos de la talla de Matilde Coral, Rafael el Negro, Farruco, Paco de Lucía o Pepe de Lucía.
Aún así, no deseaba que sus hijos bailaran a nivel profesional, ahora entiendo por qué. Es una profesión ingrata y sacrificada. Tiene más inconvenientes que ventajas, lo que pasa que las ventajas son tan grandes que pueden a los inconvenientes.

“EN AMÉRICA LEVANTAS UNA PIEDRA Y EL GUSANO QUE HAY DEBAJO CONOCE A MI PADRE”

•José Greco, junto a Antonio “El Bailarín” y Carmen Amaya, introdujo el flamenco en el continente americano.
•Trabajó en varios programas de televisión, colaborando incluso en un show de Disney
•Actor de Hollywood en películas como Ship of Fools (El Barco de los Locos) o La vuelta al mundo en 80 días con Cantinflas y David Niven
•Portada y modelo de la revista Vogue
•Amigo del presidente Kennedy, Frank Sinatra además de grandes actores de Hollywood.

Sin el apoyo de su padre...
A los 13: Anuncia que quiere bailar profesionalmente
A los 16: Deja los estudios formales y se dedica al baile
A los 18: Se casa y tiene un hijo
A los 24: Forma su propia compañía con su hermano

Hasta que un día, en el Corral de la Morería…

Apareció mi padre por sorpresa, entonces no nos hablábamos casi. Ese día mi hermano y yo éramos los artistas invitados en el Corral. Salimos al escenario y bailamos ese día como nunca, con mucha carga emocional. Todo lo que le queríamos decir a él palabra por palabra, lo hicimos pero con movimientos.
Una vez acabamos, subimos inmediatamente para saludarle y vimos a mi padre muy emocionado. “Oooooh mis hijos, maravillosos”; era muy exagerado como italiano que era.
Entonces nos sentamos en la mesa. “Ya veo que os habéis convertido en artistas y me habéis demostrado que queréis esta profesión. Ahora os voy a ayudar”. “Porque habéis luchado, habéis conseguido lo que queríais. Ahora es el momento que yo abra la puerta, antes no”.
Yo le pregunté: ¿Por qué antes no?
Él contestó: Porque si no, no serías la artista que eres ahora. Porque para ser artista hay que sufrir, no tenerlo todo fácil.
A partir de ese momento empezamos a trabajar juntos. Hicimos muchas giras en América. Nos presentó a lo grande, en el mejor teatro de Nueva York en Broadway. Su compañía se hizo familiar con nuestra incorporación siendo algo impactante en América: la prolongación de José Greco, la herencia. Yo soy lo que soy por mi padre y mi apellido.

A: ¿Qué ventajas te proporciona el flamenco profesional?

C: Estar subida a un escenario y poder contar lo que siento a través del movimiento es algo que he soñado desde niña. Y cuando la gente aplaude y reconoce y puede llorar, yo soy feliz porque he encontrado el camino para llegar a ella.
Otra ventaja es poder viajar, ver otras culturas, haber tenido la posibilidad de haber llegado muchas partes de Europa, a América, ¡a Japón!
Y por último, poder vivir de algo con lo que disfruto es una gran suerte.


A: ¿Por qué el flamenco ha tenido tanto éxito en Japón?

C: Hay un punto de unión entre Japón y el flamenco. Los japoneses son personas muy sensibles. En su expresión no se ve nada, pero dentro tienen un universo entero, un volcán. El flamenco es una forma de expresión y a través de ella pueden sacar lo de dentro; es cautivador.
A los japoneses les gusta el flamenco. La primera vez que lo ven, les choca, les llama la atención y aquellos que deciden seguir el sendero del flamenco se ven atrapados. Tengo alumnas que llevan más de 30 años recibiendo clases.
A aquellos que no lo conozcan todavía, les aconsejo que prueben una clase: puede ser un camino interesante. Si lo quieren hacer profesionalmente, es emocionante. Y si es simplemente por afición, es el mejor ejercicio que hay en el mundo. Les invito a que conozcan el flamenco a través de todos los artistas que hay aquí en Japón, que son muchos y buenos.
Además de suponer un excelente trabajo cardiovascular, el flamenco mejora la postura corporal y estira la espalda; libera tensiones y permite expresar emociones. Bailando se queman muchas calorías y se moldea el cuerpo: ¡puede ser una auténtica terapia para el cuerpo y la mente!


A: ¿Cuándo tomaste contacto con Japón?

C: Yo vine a Japón en un momento terrible en mi vida, pasando el duelo por la muerte de mi padre. Elegí pasar medio año en este país porque supuse que sería el único sitio donde nada iba a recordarme a él, pero no fue así.
Sin embargo, en esos seis meses fue tanta riqueza, tanta armonía, tanta paz, tanta belleza la que recibí que superé la muerte de mi padre aquí. Fui tan feliz caminando por estas calles de luces tenues, con estos sitios tan armónicos, y la gente tan amable y educada. La naturaleza, todo verde, tanta madera, todo tan bonito y tan especial, ¡hasta la colocación de la comida!
Por una vez en mi vida, encontré mi espacio, por eso yo adoro Japón, es una cuestión sentimental. Fue una forma de acercarme a mi padre, poder recordarle sin llorar y mi alma se asentó.


Nos despedimos de Carmela agradecidos por la conmovedora cena que habíamos disfrutado. Volviendo a casa, coincidimos en su excepcionalidad; es una mujer sensacional. Su humildad, su arte, su duende nos ha dejado deslumbrados y sus palabras resuenan en nuestras cabezas: “En Japón encontré mi sitio”. ¡Qué sentimiento tan compartido!

Alejandro Contreras
アレハンドロ・コントレラス