Autor del artículo

Yo Kawanari
川成洋
かわなり よう
1942年札幌で生まれる。北海道大学文学部卒業。東京都立大学大学院修士過程修了。社会学博士(一橋大学)。法政大学教授。スペイン現代史学会会長。主要著書『青春のスペイン戦争』(中公新書)、『スペイン戦争ージャック白井と国際旅団』(朝日選書)、『スペインー未完の現代史』(彩流社)、『スペインー歴史の旅』(人間社)ほか。

外国に疎開したゲルニカの子供たち(1)
ゲルニカ異聞――その2

2012年02月

 ゲルニカ爆撃で犠牲者となったのは、言わずもがな、いたいけな子供たちであった。しかも彼らはたとえその惨禍から辛くも生き残ったとしても、その過酷な事実を告発する手段を持たない。

スペイン内戦が今日でもなお語り継がれている理由の一つに、干戈を交えている陣営に対する攻撃として、非戦闘員の殺戮ないし威嚇攻撃が最も有効な戦術として定着したこと。こうした非人間的な戦闘は、少なくとも第一次世界大戦にはありえなかったが、これらを現実に可能にする高度な殺戮兵器とその戦術も開発されていたからだった。その典型的な実例が、史上初のゲルニカ絨毯爆撃であった。

ゲルニカ爆撃(1937年4月26日)の翌日、バスク共和国のアギーレ大統領は、ヨーロッパ諸国に、バスクの子供たちの緊急疎開の受け入れ要請を行った。ゲルニカの陥落を皮切りに、その後いわゆる北部戦線の崩壊、具体的には、バスクの首都ビルバオへの攻勢が秒読み段階に達していたからだった。

ビルバオ防衛の要は「鉄のリング」と呼ばれていた堡塁であったが、その構造が一人のバスク軍将校の裏切りによって、フランコ叛乱軍側に知られてしまった。ゲルニカ爆撃が開始される前の3月、ゴイコエチェア少佐が「鉄のリング」の青写真をお土産に叛乱軍陣営に駆け込んだのだった。五月末までには、叛乱軍のモラ将軍指揮の部隊はビルバオを包囲していた。スペイン共和国の国防大臣プリエトがすべてのビルバオの産業施設を破壊せよという命令をアギーレ大統領に出したが、大統領は勤勉なバスク人の財産を無にすることに忍び難いと判断し、その命令を無視した。6月12日、叛乱軍は「鉄のリング」を突破し、19日、ついにビルバオは陥落した。これでバスクは、叛乱軍に制圧されてしまい、バスク政府は、共和国政府の移転先であるヴァレンシアに疎開したのだった。これからバスク人の黙示録的苦難が始まる。その直後に叛乱軍に新たに任命されたビルバオ市長のアレイルサは、情報漏洩という僥倖によって勝利したことをなんとか誤魔化そうとして次のような声明を発表した。(ポール・プレストン『スペイン内戦――包囲された共和国 1936~1939』宮下峰夫訳、明石書店、2009年、321頁)。

ビルバオは武器によって征服された。取引でもなく敵の撤収によるでもなく、厳しく、雄々しく、容赦ない戦争のルールによって、征服された。エウスカディ[バスク地方]として知られた、不気味で残忍な革命の悪夢は永遠に葬り去られた。利己的で口論好きで卑劣で卑屈なバスク民族主義者アギーレ大統領よ、お前は永遠に葬り去られた。犯罪と窃盗の11ヵ月間、おまえが優雅な生活をしている間に、哀れなバスクの兵士たちは、村々で、輪縄でもってけだもののように狩り立てられ、その生皮をビスカヤの山々のいたるところに散らばせていたのだ。バスク民族主義について言えば、いまから存在するのは、すべての歴史的詭弁や法律的策略を破棄する類の議論である。(後略)

 ところで、ゲルニカ爆撃にいち早く対応したのはイギリスの民衆であった。ゲルニカの悲劇の第一報を伝えた英紙『ロンドン・タイムズ』の記事を受けて、サザンンブトンで、労働組合、宗教団体、商業組合、学生団体などで「バスクの子どもたち救援委員会(ABC)」が結成された。「ファシストと共産主義者を勝手にイベリア半島の中で戦わせておけ」という実に冷酷な政策を堅持していたイギリス政府にとってこうした運動は唾棄すべきものであった。

 それにしても、1937年5月23日、アバナ号に乗船した3840人のバスクの子供たち、それに付添いの80人の教師や120人の教育補助員、それに14人の神父たちはサザンプトン港に上陸することができた。上陸した港で、疎開してきた子供たちを安心させるために「バスクの子どもたち救援委員会」が歓迎の催しを開いた。バスクの子供たちは、生まれて始めて見るイギリス人の服装やしぐさなどがとても珍しかったようだった。数か月後に若干の子供たちがスペインに帰ったが、第2次世界大戦の勃発ごろにバスクに帰るべき故郷が無くなってしまいやむなくイギリスに残留したのは400人であった。彼らの両親は、刑務所や強制収容所などで縲絏の辱めをうけているか、あるいは処刑されていたためであった。イギリス以外では、バスク史家の狩野美智子さんによると、フランスに9,000人、ベルギーに3,200人、ソ連に2,500人、メキシコに456人、スイスに245人、デンマークに105人となっている。

 ところで、このように戦禍にまみれたバスクから平和なイギリスに疎開してきた子供たちは果たしてどのような生活を送ったのであろうか。冒頭に記したように、彼らは自らの体験を記録する手段を持っていなかった。確かにイギリスでは、こうした社会的事実が「現代社会史」の1分野として学術研究が行われてきた。従って歴史的資料として然るべきところに保存されてきたが、その中に子供たちの個人的な口述記録は皆無であった。

 2002年11月、ナタリア・ベンジャミンとその研究者たちが、生存している「バスクの子どもたち」の再会の機会を設定し、彼らの体験を英語であれ、スペイン語であれ、書いてもらい、あるいは彼らへの聞き取りをして、それを保存する企画を立てたのだった。すでに80年代の老人たちに70年近く前の不幸な出来事を回想してもらったのだった。その5年後の2007年5月、「バスクの子どもたちのイギリスへの疎開70周年」を記念して、彼らの体験を1冊の本にまとめ上梓したのである。

(Natalia Benjamin、Recuerdos:Niños vascos refugiados en Gran Bretaña, Mousehold Press, 2007)

 この本によると、ホセフィナとカルメン姉妹は、当時を回想してこう述べている。(p。15-16。)

〔ホセフィナ〕 私たちの話は、バスク地方の中心地点に位置する、ベランゴという小さな町で始まります。カルメン、アンヘル、そして私のどかな幼児時代を過ごしていました。しかし、スペイン内戦が勃発し、私たちの生活は一変したのです。フランコによるゲルニカの大虐殺の後、私たちも危ないと両親は考えて、疎開しなければならないといことになったのです。1937年5月20日、私たちはポルツゥガレーテへ向かったのです。私たちは皆泣きました。両親と離れるのはとても辛いことでした。私はママの手を放すことができませんでした。その次の日、私は10歳の誕生日を迎えることになっていました。私にとって母と別れることや、私が大切にしているものと別れることでとても悲しいことでした。5月21日、私たちは出発しました――この日がスペインでの私の最後の誕生日になるとは思いもよらなかったです。こうして私たちのイギリスへの旅が始まったのです。決して忘れられないであろう旅が。それ以来、ビスケー湾を再び越えることはありませんでした。

〔カルメン〕 5月23日の日曜日。アバナ号がサザンプトン港に停泊しました。そこで、多く人びとが私たちを出迎えてくれ、救世軍の楽隊が音楽を演奏してくれまた。お菓子とアイスクリームが支給されました。婦人たちが被っている奇妙な帽子、2階建てのバスなどを見て可笑しかったのと、この国ではなんと珍しい生活をしていることかと思いました。イーストレイの収容所に連れて行かれて、そこでたくさんのテントを見たとき、思わず「インディアンだ!」と叫んでしまいました。私たちは今までテントなるものを見たことがなく、ましてその中で寝るとは思いもよらなかったのでした。

〔ホセフィナ〕 私たちはそこに長く滞在しませんでした。というのも、救世軍がイースト・ロンドンの、コングレス・ホールと呼ばれるホステルに450人の子供を受け容れるようにしてくれたからです。その建物に着き、大きな鋼鉄製の階段、長い廊下を通って2階に連れて行かれました。それはとても大きく、監獄のようでした。各々4人で泊まる部屋を見せてもらった時ぞっとする匂いがしましたが、それは後に強烈な石炭酸の石鹸だと解ったのです。私はこのコングレス・ホールでは楽しくありませんでした。寒々としていて、それでいて収容人数が多かったからです。かつてここで自殺した少女の幽霊が出ると子供たちが言っており、私はとても怖かったです。

結局、私たちの数人が、ビリクストンのもう一つの救世軍の孤児施設に収容されました。そこは少しましだったのですが、食事は不味かった。姉のカルメンは自分の食事、さらに私の分までも平らげてしまい、フルーツは2人分私が食べることができた。フルーツは私の唯一の好物で、それがいつも故郷を思い出すきっかけとなったのです。悲しいことに、ビリクストンで大事にしていたテディ・ベアを無くしてしまいました。女の子がそのデディ・ベアを持って、塀の外に投げてしまい、姉はそれを何とか取り戻そうとしたのですが、高い塀の外側のイギリス人というものは私たちの気持ちを理解できなかったのでしょう。私はとてもがっかりしました。時が経つにつれ、食事や栄養が次第に取れなくなり、私は非常に病弱になりました。ロンドンの寒さと霧は私に全く合わなかったのです。

ある夜、私たちは、大きなかがり火を見ようと大きな野原に出かけたことがありました。11月5日でした。私たちはその日の意味は全く知らず、相当年を取ってからようやく分かったのです。煙と霧のために私はとことんまいってしまい、息をすることすらままならなり、その夜、私は先生の寝室に行きました。その次に知っていることといえば、姉のカルメンが私のベッドの脇で坐っていたことでした。私はどのくらい長い間そこにいたのでしょうか。知っていたことは、私がほぼ死にかかっていたことと、ロンドンを出て別の収容施設に移るだろうということでした。(後略)


 この姉妹のイギリス第一印象はあまりよくないようだったが、彼女たちは内戦後バスクに戻らずにそのままイギリスに住み着くことになったことを紹介しておきたい。    

川成洋
法政大学教授