Autor del artículo

Yo Kawanari
川成洋
かわなり よう
1942年札幌で生まれる。北海道大学文学部卒業。東京都立大学大学院修士過程修了。社会学博士(一橋大学)。法政大学教授。スペイン現代史学会会長。主要著書『青春のスペイン戦争』(中公新書)、『スペイン戦争ージャック白井と国際旅団』(朝日選書)、『スペインー未完の現代史』(彩流社)、『スペインー歴史の旅』(人間社)ほか。

外国に疎開したゲルニカの子供たち(2)
ゲルニカ異聞――その2

2012年05月

 次に、ベルギーに疎開したバスクの兄妹についてであるが、ルシス・デ・カストレサナ『もう一つのゲルニカの木』(狩野美智子訳、平凡社、1991)は、当時11~12歳の著者(その妹も含めて)の体験に基づいて、疎開に出発した時からちょうど30年たった1967年に書かれた小説で、この年の12月にセルバンテス賞を受賞した作品である。自分の体験を具体的に書き留めたという点では、まさに例外中の例外の記録といえよう。この小説は映画化された。映画では、ベルメオ港に停泊中のイギリス海軍の駆逐艦の傍らで演じられる離別のシーンはスペイン政府当局の検閲にかかってカットされた。


イーストリィ収容所の入口
(Recuerdos: The Basque Children Refugees in Great Britainより)


 この兄妹は別々にホームステイをすることになるが、兄(本書では「サンティ」)の逗留先がとても裕福であり、どうもその家の両親と感覚が合わないのが、自分はサンティの「ママ」だという母親の態度に我慢ができなく、具体的に反発する。それが「ママ」をひどく悲しませ、結局、サンティはその家から別の施設に移ることになる。フルリーという児童施設は、学校・寄宿舎・孤児院を兼ねたところで、6歳から16歳まで、120人ほど収容されている。ベルギー人の孤児、両親に問題があって預けられている子供、そこに20数人のバスクの子供たちが加わる。ここの先生の一人が「ブタのスペイン人」とか「スペインは野蛮だ」といったようにスペインを侮辱することがあったが、それらにサンティたちが一丸となって抵抗する。また、フルリーの庭の木を「ゲルニカの木」と命名し、その木の下で坐って自分たちの様々なことを決めた。やがて、ベルギーの少年チームとサッカーの試合をすることになり、サンティたちはバスク人だけでチームつくる。これこそ、1898年に創設のスペインで最も古いプロサッカーチーム「アスレティック・ビルバオ」の選手はバスク人だけという純血主義をサンティたちが踏襲したのだった。そうこうしているうちに、サンティたちの期待していたのと全くの逆、つまりスペイン共和国の惨敗で、スペイン内戦が終結したのだった。その後、寄る辺なきバスクの子供たちはベルギーに留まったが、第2次世界大戦の勃発、それにドイツ空軍によるベルギーの空爆、とうとうサンティたちはバスクに戻ることになった。憧れの故郷、バスクはどうなったのだろうか。国境の町イルンに降り立った時の町の様子を、サンティはこう述べている。(前掲訳書、290頁)

イルンに着き汽車から降りると、ホームにも、待合室にも、街にも、たくさんの制服の兵隊や、旗や、フランコやホセ・アントニオ・プリモ・デ・リベラの肖像や、「スペイン万歳」の文字や、ファランヘ党の青シャツ姿が見られた。サンティは違和感を感じ、自分の屋根裏部屋に入り込んで、何があったのか、どう考えたらいいのか、何を経験しているのか確かめようとした。


イーストリィのテント施設
(Recuerdos: The Basque Children Refugees in Great Britainより)


 ところで、バスクの子供たち、さらにはスペインの子供たちというべきか、彼らが疎開した先で最も悲惨な生活を強いられたのは、「人民の祖国」ソ連であった。まさにスターリンの「大粛清」の真っ只中であった。しかも、年長の少年たちは、対独戦の一兵卒として従軍し、戦死したものもいた。それにしても、ソ連での子供たちの生活はどのようであったのか。実は、こうした悲惨さは、孤児院に収容されているロシア人の子どもも同様であった(『スターリンの子供たち』オーウェン・マシューズ著、山崎裕康訳、白水社、2011年、111頁)。本書の主人公であるレーニナとミラは姉妹であり、別々の孤児院に収容され、消息は全く杳として不明だったが、偶然にも姉は餓死寸前状態の妹を発見する。妹は、勿論、姉のレーニナを識別できなかった。この収容施設に、スペインからの疎開児童が収容されていたのだった。

 結局のところ、大飢饉や粛清、戦争を生き抜いた世代の中で、レーニナとミラは幸運に恵まれたといえるだろう。2人は生き残り、互いに相手を見失うこともなかった。周りを見渡せば、親や兄弟を失った人々が大勢いるのだ。われわれには生き延びたことが信じ難く思えるほど衝撃的な経験をしながら、姉妹が引き裂かれることがなかったのは、おそらく幸運のためだろう。一緒にいたスペインの子供たちが死んだが、ミラは生きていた。レーニナの場合は数千人の子供たちが決してかなわなかった全くの偶然により、妹を発見した。これは感謝してもし切れないほどだ。


義損金募集のパンフ
(Recuerdos: The Basque Children Refugees in Great Britainより)


 イギリスの作家、ロナード・フレーザが、内戦期のスペイン人にインタビューし、オーラル・ヒストリーの手法でまとめた『スペインの血――内戦の体験、1936~39年』(アレン・レーン、1979年)には、スペインの子供たちに付き添い教員として一緒にモスクワに疎開し、そこの小学校でスペイン人児童に教えていた女教師の体験談が収められている。モスクワの小学校では、スペイン語の話せるロシア人女性が指導教官として必ず出席し、ノートを取っていた。授業時間も厳守はもとより、授業の進行状況まで厳密に決められていた。また、週末にはスペイン人教師たちの反省会が開かれ、指導教官から叱責されるのが常であった。やがてこの女教師は精神的に生きづまり、それが原因で入院し、病気を口実にして六か月間のモスクワ生活で終わりを告げ、帰国の途についたのだった。そしてほぼ40年後、彼女はフレーザーに重い口を開いたのだった(テレサ・パミエス『子供たちのスペイン戦争』川成洋・関哲行訳、れんが書房新社、1986年、204~205頁)

   ソ連の教育関係者は、明らかに、子供の個人的な自発性に対してかなりの警戒心をもっていました。高学年の各クラスから生徒の一人が監視員に指名され、生徒たちが勉強しているかどうかを確かめるために廊下を行きつ戻りつしておりました。これは一種の警察官でした。スペインでは、私は生徒たちにしたいことをさせていたのですが。

 スペインに戻ると、共産党から自分の体験について語るよう要請されました。わたしは、スペインの子供たちがソ連でいかに十分な世話を受けていたかを説明するだけにとどめておきました。というのも、それは否定しがたい事実だからです。それ以外のことは、私が誰も傷つけたくはなかったので、沈黙することにしました。


 それにしても、ソ連に疎開した子供たちの多くが再びスペインの大地を踏むには、実に20年以上の歳月を必要とした。第2次世界大戦、それに厳しい東西の冷戦状況が続いたからである。長い疎開であった。 このように、ゲルニカの子供たち含め、スペインから外国に疎開した子供たちが、内戦が終了し、あるいはその後しばらくして、肉体的にも精神的にも疲弊しきって祖国に帰還した例は枚挙に暇がないであろう。しかし、彼らを「養子」として受け入れた家庭の人たちはどのようにして彼らを送り返したのだったろうか。そしてその後、どのような生活を送ったのであろうか(前掲訳書、91頁) 。

   ベルギーに疎開した子供たちの一部は、そこで仮養子となった。義父母となったベルギー人たちは、スペイン戦争が終結すると悲嘆にくれることになった。彼らは養子にした「スペイン戦争の申し子」を心から愛していたからである。バルセロナのベルギー領事館に勤務する女性が私に語ったエピソードに次のような話がある。最近のことだが、ブリュッセルで、数人のスペイン人労働者がバスに乗り込んだ。彼らのカスティーリャ語で話しているのを耳にして、バスの車掌が突然泣き崩れた。彼はスペイン戦争終結と同時に「祖国に帰還した」ビルバオの少年を想い出したのである。

 確かに人道的な援助とはいえ、実際に「仮養子」を手放すときにはそのように割り切れるはずがなく、「仮義父母」としては辛酸を嘗めつくしたであろう。そして彼らもまた、こうした体験を心の奥底に収めて生きなければならなかったはずである。    

川成洋
法政大学教授



サウサンプトンでの「バスクの子供たち救済委員会」のキャンペーンカー
出典:『イギリス人の故郷』 (川成洋、石原孝哉共著、三修社、1984年)