Autor del artículo

Yo Kawanari
川成洋
かわなり よう
1942年札幌で生まれる。北海道大学文学部卒業。東京都立大学大学院修士過程修了。社会学博士(一橋大学)。法政大学教授。スペイン現代史学会会長。主要著書『青春のスペイン戦争』(中公新書)、『スペイン戦争ージャック白井と国際旅団』(朝日選書)、『スペインー未完の現代史』(彩流社)、『スペインー歴史の旅』(人間社)ほか。

ヘルマン・ケステンの『ゲルニカの子供たち』について
ゲルニカ備忘録――その1

2012年08月

 ゲルニカの史上初の絨毯爆撃に遭遇した子供たちについて文学作品として初めて上梓されたのは、おそらくドイツの作家のヘルマン・ケステン(1900~96)の『ゲルニカの子供たち』(1939年。邦訳、鈴木武樹訳、白水社、1963年)であろう。

 ケステンは1900年、オーストリア=ハンガリー帝国のガリチア地方、現在はウクライナ共和国において、ユダヤ系ドイツ人の卵卸売業を営む裕福な家庭に生れる。幼児期にニュールンベルクに移ったことから、「ニュールンベルクの作家」と見なされている。作家としてデビューしたのは、27歳であった。だが、ケステンはユダヤ人であったために、33年にオランダのアムステルダムに亡命し、と同時にアレルト・デ・ランジュ社のドイツ語部門の編集担当者となる。その後、第2次世界大戦直前にニューヨークに移る。戦後、ローマ、バーゼルなどで暮らすが、亡命以降、2度とドイツに戻らなかった。彼こそ生涯にわたって寄る辺なき亡命作家であったのだ。

 さて、『ゲルニカの子供たち』は、ゲルニカ爆撃の翌年春、パリのセーヌの橋の上で、本書の主人公、年齢の割には慧眼なゲルニカ生まれの15歳のカルロス少年が、本書の語り手である「わたし」と出合うことから始まる。「わたし」はパリに亡命したドイツ人の「独裁者の対蹠人」を自認する「亡命文士」であり、カルロスからは「先生」と呼ばれている。「わたし」にとって、カルロスは、「近頃ヨーロッパの町々で幾千となく見かける、あの、スペインを逃れてきた子供たちの――わたしたちの世界の《善意》の証人たちの、ひとりであった」。この2人は、以前に数回会った顔なじみのようだ。チュイルリーの木立の間にあるカフェーに腰を下ろし、カルロスが内戦勃発直後から今までの想い出話を始める。

 カルロスの兄弟は7人、父親は薬局を営んでいた。誰が見ても美しい女性という評判の母親と一緒にのどかで、たのしい家庭を築いていた。7月18日、つまり北アフリカのモロッコのスペイン陸軍駐屯地で軍事蜂起が勃発した翌日、スペイン本土の各地の陸軍駐屯地でこれに呼応して、軍事反乱が起こる。バスク地方も、県によっては叛乱軍側だったり、共和国側だったりで、右往左往する、実に不安定な日々が続く。間もなく誰でも危惧している「内戦」が勃発する。(以下、引用文中の固有名詞は、若干、今日流に訂正しました。――川成)

サン・セバスティアンが無血で、反乱軍の指導者ベオルレギの手に落ちていました。三千人もの人たちが、モーロ人を怖がって逃げ出しました。あの連中は、女のひとの乳房や、子供の指や、男の人の頭を切り落としたのだそうです。避難民が大勢、ゲルニカへ入ってきました。その人たちは、子供や、ミシンや、ボール箱や、恐怖をうしろに引きずってきました。両親と別れ別れになった小さな子供や、取り乱した親が何人もいました。(中略)オリーヴの木にぶら下げられた人もあるそうでした。バスクの自由を祈願した神父たちが七十人、撃ち殺されました。

 こうした混乱が続いたものの、1936年10月1日、スペイン共和国政府は、バスクの長年の願望だった「バスク自治法」を公布し、バスク自治政府が成立する。その首班(レンガダリ、大統領)に若き弁護士のホセ・アントニオ・アギーレ(1904~60)が就任する。といっても、バスク側としては、「自治」を捨ててカトリックを選んでフランコ叛乱軍陣営に与するか、それともバスクの独立を容認する共和国側に付くか、二者択一を迫られた挙句の厳しい選択であったのだ。新設バスク自治政府は、外交権、貨幣発行権などを持たないものの、バスク独自の部隊を編成することができた。

 そして、1937年4月26日 ―― 父を、4人の弟や姉を奪われたカルロスがゲルニカの爆撃をこう回顧する。

爆撃がすんで、もっとあとになってから、町の人たちがやってきて、ぼくを崩れた家から救い出してくれたとき――ぼく、このとおり、かすり傷ひとつしませんでした――、そのときぼくは、時計の鎖があったんで、これが父なんだなって、わかったのでした。(中略)ぼくは父がほかの誰よりも好きでした。つまり、ぼくはひとりきり、父のそばに残ったのです。それから、死んだ人たちが――あたりまえですけど。この人たちは、起き上がって、母やパブロおじさんみたいに、ひびのいった壁と壁のあいだを抜けてまっしぐらに逃げていくことは、もうできなくなっていました。母は妹のモデスタを、おじは兄のホセをつれて、逃げてしまったのでした。ふたりはぼくを忘れていきました、ぼくだって息子だし、甥なのに。ぼくは死んだ人たちのそばに残っていました。裁判所の人と、うちの助手と、パパのお気に入りの、七つになるギルと、十七になるイノセンティアと、弟のエウヘ二オとバルトロメオ――町の人たちはみんなひとやまに積みかさねました、パパの時計の鎖や、散らばっていた父のからだを集めた所へ。十字架は、ぼくがもらっておきました。それはシンチュウでできていて、ほんの少しねじまがっているだけでした。

 カルロスは、愛する家族の無残にも爆殺されたバラバラの死体を確認してから、母とパブロ伯父、兄と妹を探し回る。そこにイエズス会のベニート神父と出合う。結局、ゲルニカでは母親たちと再会できず、あるいは彼らの死を確認することもできず、進駐するフランコ叛乱軍の追撃を恐れて、他のおおぜいのゲルニカの住民と同様に、神父と共にビルバオへ逃れることにする。バスク政府が急派したバスを使っての夜間ピストン運行であった。昼間はフランコ軍航空隊の襲撃の的になるからだった。だが、やっとビルバオに着き、夢中になって家族の消息を探し回るが、何の手がかりも掴めず、やはりゲルニカに戻ることにする。すでに叛乱軍に制圧されているゲルニカに戻ることは極めて危険だと猛反対する神父に何とか頼み込んで同行してもらう。はたせるかな、密かにゲルニカにはいるやいなやフランコ叛乱軍にスパイ容疑で逮捕されてしまう。何ら取り調べも受けずに3日間も地下牢に押し込められ、しかるべき場所で尋問したいと、神父、カルロス、そして2人の女性がトラックに載せられる。連行された先は墓地であった。銃殺班の中年の男がカルロスの父親を知っていて、墓地の中に連れて行くときに、カルロスにぴったりと寄り添って「列の一番はしに並びな。最初の1発で倒れるんだぜ! 声はたてずにな! あんたが倒れたら、もういちどあんたを撃つけど、声はたてるんじゃないよ!」と囁いたのだった。3人は銃殺された。九死に一生を得た彼は、ゲルニカから、ビルバオにたどり着き、国際赤十字の救援活動のおかげで8回もの空襲警報が鳴り響くあいだ、2300人もの子供たちと一緒にイギリス船ハバナ号に乗り込む。イギリスの軍艦とフランスの軍艦に厳重に護衛されたハバナ号は約9時間かけて、ラ・パリースに到着する。やがて、パリのノエル家に預けられ、ノエル夫妻から「ムッシュ・シャルル」と呼ばれる。

 その1年後、カルロスを探し当てた、父親の兄であるパブロ伯父がノエル家に尋ねてくる。伯父によると、彼の母親、兄、妹の4人はゲルニカから脱出し、農夫に変装してピレネーを越えてフランス入りをしたのだった。父と結婚する前から、伯父と母が恋人同士だったのも大いにショッキングな事実だが、無惨にも亡くなった父や兄弟のことをあまり心にとめていない母のところに戻るのをきっぱりと拒否する。その伯父が、母を捨て、あろうことか、カルロスの世話をしてくれているノエル夫人と駆け落ちし、それを知って夫のノエル氏がピストル自殺を遂げる。

 カルロスは、兄のホセと殴り合ったり、あるいは失恋したりして、セーヌに身を投じる。自殺を図ったのだった。幸い、釣り人に水中から救い出され病院に搬送され、一命を取り留めることができた。2週間余りの入院後に退院の見込みができ、毎日のようにカルロスの見舞いに来る「わたし」に向かってこう語る。

    スペインの戦争はいつか終わるに違いないって、そうお考えですね? もう二年の余もつづいています。スペイン人が死ぬだけ死んだら、たぶんいつか終わりますよ。そうしたら、ぼくらは国へ帰ります。死んだ人たちのところへ。そうして、それから?
(中略)
すべてよし、です! じっさい、ぼくはほんのちっぽけな子供なんですからね。それに、人間たちからこんなめにあわされたのは、べつにぼくだけではない、って、思っています。それから、ぼくが自殺する気になったのは、じっさい、まちがいでした。でも、ぼくをようくごらんになってください!これからぼくはどうなるのでしょう?


 これが、本書の末部である。何ともいえぬカルロスの絶望感。大きな暗い不気味な戦雲が低く垂れこめてきているパリにおいて、カルロスがこれからどうなるのか、われわれ読者の想像力に委ねられている。カルロスやその家族のような、フランス警察当局から国外退去を求められている避難民たちの運命は、ファシズムの横暴を怯懦にも座視している民主主義勢力のあいだで翻弄されるのは火を見るより明らかであろう。事実、このことは、第2次世界大戦の緒戦段階で完膚なきまでに証明されたのである。    


川成洋
法政大学教授