Autor del artículo

Akira Sekine
関根彰良
せきねあきら
ギタリスト
1978年5月5日生まれ。千葉県出身。幼少の頃よりクラシックピアノを始める。12歳でロックに興味を持ちギターを手にする。東京大学入学後ジャズに出会い、同大のジャズ研究会に所属しながらプロとしての演奏活動を開始する。文学部美学芸術学専攻を卒業。

2002年から07年まで西尾健一(tp)グループに在籍、アルバム『Go Ahead, Have Fun!』に参加し全国をツアーする。2009年夏にはNYで活躍中のAnat Cohen(cl, sax)の日本ツアーに参加。これまでの主な共演者は、前田憲男(p)、村上ポンタ秀一(ds)他多数。

クラシックギターを井上學、フラメンコギターを山崎まさし各氏に師事。

2011年HARU RECORDSよりファーストアルバム『FUZZ JAZZ』をリリース。発売記念全国ツアーを行う。現在、自己名義のソロ/トリオでのライブをはじめ、様々なセッションやレコーディング等、ジャズを中心とした幅広いジャンルで活動中。

公式 http://www.akirasekine.com/

アンダルシアへ
フラメンコギター留学記・その1

2012年08月

 「忍者とお付き合いするようなものでしょ」
 2012年6月初頭、横浜。私は日頃からお世話になっている楽器工房tmpにいた。スペインで入手したギターをチューンナップ・調整してもらうためだ。
 工房の責任者である松下達也氏はかつて有名楽器メーカーに在籍し、国内外の数多くのミュージシャンにギターやベースを提供してきた。そんな彼もフラメンコの世界とは深く関わったことがないという。フラメンコのアルティスタ達の話題になり、彼らの生きる世界の特殊性に普通の人たちは戸惑うという話の流れの中で松下氏が語ったのが冒頭の言葉だ。
「でもやはり、それだからこそあの音楽は魅力的ですよねえ。」
彼は付け加えた。
 ロックでギターを始め大学に入ってジャズに出会い、その後クラシックやボサノバ等の音楽も経験した。そんな自分が昔から憧れ、しかし他のジャンルのギターと「あまりに違いすぎる」ために手を出すのを躊躇っていたのがフラメンコギターである。友人の紹介で師匠・山崎まさし氏の門を潜ったのは5年ほど前のこと。フラメンコギター独特の演奏技術について知りたいというちょっとした好奇心から習い始めたのだが、コンパス(リズム)をより深く理解するためにバイレ(踊り)やカンテ(唄)のことも学び出し、次第にフラメンコのCDが増え、そのうちプロのアルティスタの方々と一緒にステージに立つ機会も頂き、気が付いたら「スペインに行ってくる」と公言していた。これがフラメンコの持つ魔力なのだろうか。

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「ちょっと、こっちに来てくれ!」
3月中旬、アンダルシア地方西部、へレス・デ・ラ・フロンテーラのサンチアゴ地区。古くからヒターノ達が住み数多くのアルティスタを輩出してきた、いわば「フラメンコの揺りかご」。昨年来日した際に知り合ったギタリスタ、チャノ・カラスコのクラスはこの地区にある彼の実家の居間で行われた。彼の声を聞きつけて、父親と弟がやってきた。
「アキラ、弾いてみろ。」
習ったばかりの一節を弾き始めるとチャノ達が3人でパルマ(手拍子)を叩きはじめる。
「カンタオーラも!早く!」
隣のキッチンで昼食の準備をしていた母親までもが呼び出され、ブレリアを歌い始めた。
 私は緊張しっぱなしだったが、よく考えると贅沢なクラスだ。チャノを除いてプロのアルティスタではないが、やはりフラメンコを知っている。築200年の歴史あるこの家で、またこの地域のいたるところで、このような光景が幾度となく繰り返され、フラメンコは引き継がれ発展してきたのだろう。
 クラスの後、通り道だから送っていくよと、彼は私を車に乗せてくれた。
「ディエゴ・カラスコは俺の伯父さんさ。すぐそこに住んでるよ。」
「ここでブレリアが生まれたんだ。」
サンチアゴを案内する彼の口調からは、ある種の誇りのようなものが感じられた。連綿と引き継がれてきた、一族の誇り。

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「違うぞ!」
弾けるようになるまで練習してろ、とレッスンをほったらかして隣の部屋でゲームに興じているかと思いきや、彼の耳はしっかり私のギターに向いていた。
 へレス中心部から徒歩で10分ほど、ピノ通りにある小さなバル、ティオ・グレゴリオ。ヘレスのフェスティバルで聴いて大好きになったギタリスタ、マヌエル・パリージャのクラスでの一コマである。
 滞在期間等の理由により回数や時間が限られているクラスの場合、その場で消化できなくてもとりあえず沢山のものを教えてもらって後で録音を聴きながらゆっくり復習するという手もある。しかしマヌエルの場合は違った。一音一音の弾き方から丁寧に教え、私がしっかりその通りに弾けるようになるまで次に進ませてくれない。こっちも必死になって喰らいついて行った。
「こいつは自分独自のものを創り出しているからな」
マヌエルについて、バルの主人であるグレゴリオはこう言った。実は彼を含め、店員もみなパリージャ一家。家族経営のバルなのだ。マヌエルの伯父は名ギタリスタ、パリージャ・デ・へレス。昨年亡くなったモライート・チーコとも血縁関係にあるそうだ。グレゴリオもパルメーロ(パルマの叩き手)として数多くのCDや公演に参加している。
 ここでもやはり飛び入りのカンタオールやパルメーロ達がレッスンを邪魔・・・いや、彩る。ジャズを弾く日本人がフラメンコを習いに来た、とみんな珍しがっていた。

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「どの唄も全部同じだよ」
唄のメロディが「落ちる」音を聴き間違え別の和音を弾いてしまった私に、カンタオール、ホセ・メンデスはこういった。
 私がこれまで経験した音楽の大多数は、小節線で区切られて長さが決まっている。しかしフラメンコの唄は違う。唄い手の節回しによって伸びたり縮んだりするのだ。伴奏者であるギタリスタはメロディの終わるタイミングとその音(=「落ちる」音)をよく聴いて、それに合った和音を的確に選ばなければならない。和音の種類や進行のパターンはある程度限られているとはいえ、自分にとって最も難しいことの一つだ。
 どの唄も同じ、というのは、厳密に言えば間違っているかもしれないが、確かに良く聴いてみるとどれもよく似ている。それに、唄を楽しむ、という姿勢で伴奏をすると、落ちる音やその落ちた先の和音が自然と聞こえてくることがわかった。普段ジャズなどを演奏している時は自然にできていることだ。とにかく慣れることが、そして唄を愛して楽しむことがカギだと感じた。
 クラス終了後、「ちょっと一杯行こうか?」とホセ。彼の行きつけのバルに入り、一杯のつもりが・・・。そこに居合わせた仲間も加わり、昼間からみなビールでご機嫌。即興の唄ありギターあり、ちょっとしたフィエスタが始まった。
 アンダルシアに時計はない、と感じるのはこういう時だ。あの陽光が、すべてを解決してくれる。

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 へレスは小さな街だ。セントロ(中心部)の端から端まで、2~30分もあれば歩いて移動できる。街中で知り合いに出くわすこともしばしばだ。
 季節は春。街の至る所に植えられたオレンジの木が、緑と橙の鮮やかなコントラストを映し出す。建物は夏の暑さを避けるために白色に塗られたものが多い。他には黄色やピンクなど、日本ではあまり見ない色をした建築もあった。
 2月末、到着した日は初夏のような暑さだったが夜になるとかなり冷え込む。内陸なので寒暖の差が激しい。しばらく冬の上着にお世話になった。
 へレスでは毎年2月下旬~3月上旬頃にフラメンコ・フェスティバルが開催される。今回のフェスティバル期間中、日本を含め様々な国からたくさんの人がヘレスに来ていた。私の知った限りでも、ドイツ、フランス、ロシア、オーストリア、イスラエル、ニュージーランド、台湾…などなど。フラメンコは世界で愛されているのだと実感した。日中はアルティスタ達によるクラスが開かれ、夜は彼らによる舞台公演が催される。メイン会場以外の小さなバルでも様々なコンサートが行われており、街全体が祭りの雰囲気に包まれていた。
 フェスティバルが終わると街は急に静かになり少し寂しくなった。しかし週末になるとあちこちのペーニャ(フラメンコ愛好家たちによるサークル)で色々なコンサートが開かれ、私は足繁く通った。アルティスタが素晴らしいのはもちろんだが、見に来ているお客さんたちがこれまた素晴らしい。いいタイミングで格好いいハレオ(掛け声)をかけるし、フラメンコへの愛が伝わってくる。本場に来て良かったと思ったことの一つだ。
 へレスではバイレのクラスに顔を出してギターを弾かせてもらった。チキ・デ・ヘレス、アナ・マリア・ロペスのお二人に感謝したい。
 4月中旬、一か月半滞在したヘレスに別れを告げ、私は今回の滞在の第二の目的地であるセビージャへと向かった。

(つづく)

文・写真  下山静香


ギタリスタ、マヌエル・パリージャ氏と。
全5回のレッスン終了後、バルでカフェを飲みながら日本の話に花が咲いた。



春の陽光に映える色鮮やかなオレンジの街路樹。
アンダルシア・フラメンコセンター前にて。



セントロにあるタバンコ(飲み屋)の店内風景。
1杯1ユーロ~と安価で、平日の昼間から人々でごった返す。