Autor del artículo

Yo Kawanari
川成洋
かわなり よう
1942年札幌で生まれる。北海道大学文学部卒業。東京都立大学大学院修士過程修了。社会学博士(一橋大学)。法政大学教授。スペイン現代史学会会長。主要著書『青春のスペイン戦争』(中公新書)、『スペイン戦争ージャック白井と国際旅団』(朝日選書)、『スペインー未完の現代史』(彩流社)、『スペインー歴史の旅』(人間社)ほか。

ヘミングウェイ ~ アメリカの大文豪誕生の地・パンプローナ ~

2012年11月

 現代アメリカ作家のなかで、自分こそ最大の「イスパノフィロ」なりと公言して憚らないのは、ヘミングウェイ(1899~1961)を措いて他にいないであろう。

 ヘミングウェイがはじめてスペインの大地に足を踏み入れたのは、1919年1月、アメリカ軍の負傷兵としてイタリア戦線からニューヨークに帰還する途中に立ち寄った英領ジブラルタルであった。この港町で数日過ごしている。ついで、21年12月8日、ニューヨークからフランスのル・アーブルに向かう途中、ほんの数時間だが、ガリシア地方のヴィゴ港に上陸した。船上から眺めたヴイゴの荒々しく男性的な印象は強烈だったようで、「疲れた恐竜たちが、海に落ち込んだように見える大きな褐色の山々」と友人あての手紙の中で述べている。逗留先のパリでは主にアメリカやカナダの新聞や雑誌のレポーターとして記事を書きながら、幸運にも、当時パリに集まってきた新進気鋭の作家たちに知遇を得ることができた。エズラ・パウンド、ジェイムズ・ジョイス、T・S・エリオット、ウェンダム・ルイスとった綺羅星の如き文士たち、そして何よりも、1903年以来パリに住み着き、例えば無名時代のピカソの才能をいち早く発見し、自分も前衛的な作家・詩人として活躍していた女流作家ガートルード・スタインであった。自分の感覚を、つよい言葉で生き生きと伝えようとした彼が、これらの先輩文学者たちから大いに啓発されるものを吸収したに違いない。果たせるかな、パリで駆け出しの記者生活をはじめてほぼ一年半後の、1923年7月、『3つの短編と十の詩』を処女出版する。

 その一ヵ月前の、23年6月1日、最初のスペイン旅行の折に、マドリードで闘牛を初めて観戦した。この闘牛がヘミングウェイに「イスパノフィロ」へと大きく舵をきらせたのだった。後に彼は、闘牛観の集大成たる『午後の死』(1932年)の冒頭部に「生と死とが、つまり激烈な死が見られる唯一の場所は、戦争が終わった今となっては、闘牛場のみであり、ぼくは闘牛を研究できるスペインに是非出かけたくなった」と述べているように。

 ところで、ヘミングウェイに、24年7月のパンプローナのサン・フェルミン祭行きを勧めたのは、ガートルード・スタイン女史であった。彼女は、アメリカ中西部から来た「何より、見て、感じて、嗅ぎ、聞き取るのが肝心」をモットーにしている23歳の文学青年の才能を直感的に明視したのだろう。翌年の7月にもまたパンプローナに出かける。この時の闘牛場見物で、ヘミングウェイは、友人が牛に突かれて倒れたのを助けだそうとして飛び出した途端に自分も突かれて怪我をする。幸い彼の傷はほんのかすり傷だったようである。この事件はシカゴの新聞に写真付きで大きく報道された。

 こうしたパンプローナでのサン・フェルミン祭闘牛見物などを素材にした『日はまた昇る』を書き始めたのは、26歳の誕生日の、1925年7月21日であった。

 『日はまた昇る』の語り手である「ぼく(ジェーン・バーンズ)」は、第一次世界大戦の負傷で性的不能者となり、新聞記者としてパリに留まり、同じく大戦に篤志看護婦として従軍したイギリスの貴族夫人レディ・ブレッド・アシュレーは大戦中に恋人を失い、その後、酒乱で浪費家の性格破綻者のマイク・キャンベルと婚約したがうまくいかず、バーンズを愛するようになるが、「サン・フェルミン祭」の終りの日に、19歳の美少年で、気品の高い闘牛士ペドロ・ロメロを誘ってマドリードに逃げる、といったラブ・ロマンスをメイン・プロットにして、第一次世界大戦に参戦し、戦後の人生に方向を見失い自国に安住できず、パリでデラシネの生活に浸っている「ロスト・ジェネレーション(失われた世代)」の姿を彼独特のスタイルで描かれている。結果的には「ぼく」とアシュレーの愛は本源的には不毛であることを明示することになるが、それでいて、最終部の二人の惜別には一種の明るさを感じられる。おそらくヘミングウェイは、一見この底知れぬ絶望や倦怠の真っ只中の「ロスト・ジェネレーション」に一脈の救いの余地を見出していたのではあるまいか。ところで、『日はまた昇る』では、サン・フェルミン祭がこう紹介されている(佐伯彰一訳、集英社、1977年)。

7月6日、日曜日の正午に、お祭りは爆発した。いや、爆発としか言いようがないのだ。人びとは終日、田舎から入り込んできたが、たちまち町に溶け込んでしまって、区別もつかない。広場は、つねに変わらず暑い日射しの中で静かだった。百姓達は、町はずれの酒屋に入っている。そこで飲みながら、お祭りを待ち受ける。
(中略)
午後には、大きな宗教行列があった。サン・フェルミンが教会から教会へと移される。この行列には、教会と町との、おえらい方みんなが加わっている。人混みがひどすぎて、行列も見えなかった。格式ばった行列の前後で、リオ・リオの踊り手たちが踊り続ける。群衆の中で、一段の黄色いシャツが上下に動いている。路地から歩道まで、いたる所をぎっしり埋めつくした群衆のあいだから、やっと見えたものといえば、大きな巨人、煙草屋用の三〇フィートもあるインディアン、ムーア人、王と王妃などの人形がリオ・リオの曲に合わせて、重々しく輪をえがきつつ、揺れ動いてゆく姿だけだった。(後略)


 ヘミングウェイの最初の長篇小説『日はまた昇る』は、1926年10月に出版された。26歳の時である。初版は5000部だったが、非常な反響を呼び、年内に2万6千部を売り切って、イギリスでは『フィエスタ(お祭り)』というタイトルで出版された。これで「新鮮で、しゃれた」短篇の書き手に過ぎなかった、ほぼ無名の文学青年の名を一躍著名な長編作家に変貌させたのである。

 こうして、パンプローナにおいて、ヘミングウェイは作家としての幸先良いデビューを果たしたのだった。

文 川成 洋




写真:パンプローナでの滞在を楽しむヘミングウェイ
Fotos: © Ayuntamiento de Pamplona