Autor del artículo

Yo Kawanari
川成洋
かわなり よう
1942年札幌で生まれる。北海道大学文学部卒業。東京都立大学大学院修士過程修了。社会学博士(一橋大学)。法政大学教授。スペイン現代史学会会長。主要著書『青春のスペイン戦争』(中公新書)、『スペイン戦争ージャック白井と国際旅団』(朝日選書)、『スペインー未完の現代史』(彩流社)、『スペインー歴史の旅』(人間社)ほか。

《ゲルニカ》よ、永久なれ!
ゲルニカ備忘録――その2

2013年02月

 ピカソは、不倶戴天の敵フランコの死去する2年前の1973年、フランスのムージャンで亡くなった。その8年後、ピカソの生誕100年を記念して、《ゲルニカ》がアメリカから戻されることになった。2年にわたるアメリカ政府との返還交渉の成果であった。細長い木箱に収められた《ゲルニカ》を乗せたニューヨーク発のイベリア航空特別機が、1981年9月10日払暁、ようやく「最後の共和国亡命者」として、厳戒態勢のマドリ-ドのバラハス空港に到着したのだった。当初、右翼陣営が実力阻止するといった噂があったようであり、そのための厳重警備と思われる。

 《ゲルニカ》は、かつてピカソが館長になることになっていたプラド美術館の別館で一般公開された。いつ私が《ゲルニカ》を見たか忘れてしまったが、その頃、展示に反対する勢力が力をもたげていたのだろうか、別館での展示には、前面と側面をカバーする大きな防弾ガラスで保護され、しかも壁画の両サイドに軽機関銃を装備したガードマンらしき警備陣がいた。《ゲルニカ》はこのプラド美術館の別館も安住の地ではなかったのか、というのが私の率直な感想だった。

 そして、《ゲルニカ》は、ソフィア王妃美術館に移された。しかし、バスク自治政府は《ゲルニカ》をソフィア王妃美術館が所蔵することに反対の意を表明し、1997年10月開館予定のビルバオのグッケンハイム美術館も、3階の「礼拝堂」に収まることを主張した。この辺の厳しいやり取りは、本誌第4号の拙稿「その3――ピカソの《ゲルニカ》の誕生とその波紋」(pp40~41)を参照されたい。結論からいえば、現在でも《ゲルニカ》はソフィア王妃美術館に展示されている。

 最近、そこを訪れたジャーナリストの永峰清成のスペイン逍遥記『スペインの奥の細道紀行――バスク・アンダルシア・・・・』(彩流社、2012年,36頁)には、著者が、ソフィア王妃美術館の2階に展示されている《ゲルニカ》を観たときのようすがつぶさに記されている。


 その場所は、病室と廊下の仕切りを取り払ったような、外側の壁の間に置かれている。プラド美術館の別館に置かれたような、厳重な扱いではなく、どこかぞんざいに置かれた感じがする。それに照明もあるのか無いのか、これは自然光にまかせているのだろうか。そしてもっと異様に思ったのは、絵の横の壁あたりに、いろいろなものが張り付けであるのだ。それは美術館ではなく、観客の誰かがやった悪戯のようにも見える。
 《ゲルニカ》の写真をコピーして、それを上下逆さにした者や、あるいは絵を部分的に切り取って、それも横向きに張り付けたりと、とても美術館がやったとは思えないのだ。どこかこの作品に対する悪意、とまでいかなくても揶揄の気持ちを現わしているように思える。たしかにこの頃は、《ゲルニカ》に対する熱気が冷めているようだ。それは展示に反対すると賛成するとにかかわらずだ。この絵も、もう国賓待遇ではないということかもしれない。



 著者の嘆息が聞こえてきそうである。私も、マドリードにいる友人にこのことを確認したいと思って連絡を取ったのだが、あいにくうまく取れなかった。

 それにしても、たとえソフィア王妃美術館でこのような「ぞんざいな扱い」をされていようとも、《ゲルニカ》には、決して消えることのないメッセージが備わっているのだ。スペイン内戦の1937年7月、パリ万博のスペイン館で初披露されたのだが、その真向いには巨大な肖像写真が貼られ、そのキャプションに「フェデリコ・ガルシア・ロルカ・詩人、グラナダで殺される」と書かれていたのも、然り。

 そして現在、アラン・セールの『ゲルニカ――ピカソ、故国への愛』(松島京子訳、冨山房インターナショナル、2012年)によると、世界の各地で繰り広げられている平和デモや、反戦デモにも、この《ゲルニカ》が最先端に掲げられているのだ。マドリードでも、然りである。    


文 川成洋