Autor del artículo

Masao Kuwabara
桑原真夫
くわばらまさお
1977年よりほぼ毎年スペインを訪問。1984年から1989年まで銀行員としてマドリッドに駐在。ヨーロッパ在住約14年。 スペイン関係主要著書;『斜めから見たスペイン』(山手書房新社)、『それぞれのスペイン』[共編著](山手書房新社)、『スペインの素顔』(河出書房新社)、『スペインとは?』(沖積舎)、『ロサリア・デ・カストロという詩人』(沖積舎)、『我が母へ』(沖積舎)、『ガリシアの歌・上巻』(行路社)、『花へ』[写真詩集](山手書房新社)他多数。

チンチョン伯爵夫人 (その2)

2013年05月

 1800年3月、マドリッドのゴドイ宰相の宮殿。フランシスコ・ゴヤが新たな肖像画のスケッチを始めていた。ゴヤの視線の向こうには、メランコリックで内向的で臆病なマリア・テレサ・デ・ブルボンがポーズをとっている。二十歳の誕生日を迎えたマリア・テレサは妊娠している。彼女はその28年後、スペインから遠く離れた異国の地で不幸な生涯を終える。彼女から寡黙な表情が消えることはなかった。

 眼差しを失ったこの女性は、1735年に伯父のカルロス3世が、自分を母親から引き離してトレドのサクラメント修道院に監禁したことを思い出していたのであろうか。この専制君主は王位継承の時期が来たとき、自分の弟であるドン・ルイス親王(マリア・テレサの父親)の干渉を受けることを恐れた。次の王は自分の子供であるカルロス4世に決めていたのであるが。

 トレドの修道院でマリア・テレサは12年の歳月を過ごした。彼女の将来は修道女になることしかなかった。宮廷に戻ることなどあり得ないことであった。ところが突然、彼女が17歳のとき、従兄であるカルロス4世の王妃マリア・ルイサにより王宮に呼ばれるのである。王妃マリア・ルイサは彼女の愛人である宰相ゴドイに箔をつけてやるため、ブルボン家の血をひくマリア・テレサをその妃にすることを思いついたのであった。しかもゴドイには終生の愛人ペピータ・トゥドーがいた(1829年パリで正式に結婚)。まさに政略結婚である。

 こうしてマリア・テレサは1797年10月2日にエル・エスコリアルでゴドイとの結婚式を挙げた。17歳の娘マリア・テレサにとってこの結婚は、それまでの幽閉生活から抜け出せ、晴れて肉親たちにも会える、しかも結婚相手は時の宰相ゴドイであり、幸せに胸膨らませていたであろう。

 ところが生々しい現実とは無縁であったうぶな娘は、結婚とともにその非情な大人の世界を知る。王妃の間男に箔をつけるためだけの結婚、夢見た暖かい家庭生活とは無縁な日常が待っていた。1800年4月末に漸くその肖像画が出来上がる。肖像画の女性のお腹にはすでにゴドイの子供が宿っている。数ヵ月後に生まれるゴドイの唯一の娘は国王夫妻からカロリータ・ルイサ (カロリータが国王のカルロスから、ルイサが王妃のマリア・ルイサからの命名) の名を授かることになる。一説によると、母親はこの娘を見ると、忌み嫌っていた夫ゴドイを思い出すので、娘を見るのが辛かったという。

 2000年2月。マドリッドのサラマンカ地区のエレガントな建物にはこれといった警報装置はない。その建物のなかは芸術品で一杯である。その一角にさりげなく掲げられている絵。保険もかけられていない。紛れもなく200年前にゴヤが描いたあの肖像画である。縦2.16メートル、横1.44メートルの大きな絵画である。このときの所有者の一人エンリケ・ルスポリ氏。64歳、独身にしてバニャーレス伯爵且つ哲学専門の教授である。

 この絵は40億ペセタ(当時の為替レートで約120億円)でプラド美術館に売られたばかりである。もうすぐこの館から消える運命にある。ルスポリ氏は嘆く。「ご先祖さまのこの絵は売るべきではなかった。しかし、相続税が6億ペセタもかかってくる。払えるわけがないのだ。国外で売れば当然巨額の高値がつくが、芸術遺産に指定されているこの絵は国外には持ち出せない。だから仕方なくプラド美術館に売るのだ。」

 ルスポリ氏はチンチョン伯爵夫人の系譜に属する。この絵の所有権は兄弟3人が持っていた。バニャーレス伯爵のエンリケ・ルスポリ氏、スエカ公爵のカルロス・ルスポリ、ボアディージャ侯爵のルイス・ルスポリ。遡ればフェリーペ5世。れっきとした王族の一族である。

 これに対し、宰相マヌエル・ゴドイの家柄ははっきりしない。エストレマドゥーラ出身の地方貴族とも、豚飼いだったとも言われる。ゴドイは出世、成金術に関しては右に出るものがいなかった。17歳で国王の護衛隊としてマドリッドにやってきた。本能ともいえる政治的勘と、カルロス4世とその妻マリア・ルイサからの寵愛を得て、たった10年でスペイン最強の男となった。

 その権力によりゴドイは多くの美術品を蒐集した。ゴドイコレクションと呼ばれる。絵画の数は1100点にのぼり、ティッセンのコレクションを上回ると言われた。テイッツアーノ、ヴァン・ダイク、ラファエル、コレージオ、リベラ、ムリーリョなどが並んでいた。そしてゴヤの『着衣のマハ』と『裸のマハ』。ベラスケスの『鏡のビーナス』と『キリストの磔刑』。

 ゴドイが権力の座から滑り落ちるのも速かった。ゴドイがその妻マリア・テレサの肖像画をゴヤに描かせた8年後にアランフエスの暴動が起きる。ゴドイはカルロス4世夫妻とともに失墜、国外に亡命することとなる。そしてカルロス4世の長男のフェルナンド7世が新国王となる。早速、かねてからの敵であるゴドイの財産を押収する政令を発する。続いてナポレオンのフランス軍がスペインを占領し、それに対する独立戦争が勃発する。フランス軍が撤退したあとゴドイコレクションの1100点の絵画は381点しか残っていなかった。残りはすべて盗まれるか破壊されたか、横流しされた。残された絵画のうち100点ほどは1813年にチンチョン伯爵夫人の手元に返された。何とその中にあのゴヤが描いた肖像画が奇跡的にあった!残りの200点以上はマドリッドの王立サン・フェルナンデス美術アカデミーに運ばれ、この美術館の由来となっている。

 ゴドイコレクションから散逸した絵画は世界の美術館に分散している。収蔵数が最も多いのはマドリッドの王立サン・フェルナンド美術アカデミーとプラド美術館。そしてサンクトペテルベルグのエルミタージュ美術館、ロンドンのナショナルギャラリー。他にミュンヘン、アントワープ、ブリュッセル、ブタペスト、ダラス、ヒューストン、シカゴにもある。

 さて、絵画を取り戻せたチンチョン伯爵夫人は、それらを(勿論彼女の肖像画も)マドリッドから15キロほど離れた所にある、一族にとって宝の館ともいえるボアディージャ・デル・モンテ宮殿に移した。しかし、専制君主として返り咲いたフェルナンド7世が、マリア・テレサが身を寄せていたトレドの枢機卿である弟ルイス・マリアを幽閉するに及び、1820年に母親の故郷サラゴサに一時的に逃げ延びる。1823年には弟が亡くなり、妹の住むパリに亡命した。

 この間、フェルナンド7世により王族と結婚することを許されなかった マリア・テレサの一人娘カロリータ・ルイサは、1821年にイタリアの貴族カミーロ・ルスポリと結婚する。こうしてチンチョン伯爵夫人の系譜はルスポリ家へと繋がってゆく。そして『チンチョン伯爵夫人』の肖像画の流浪の旅が始まるのである。   

(つづく)

文 桑原真夫



「フランシスコ・ゴヤの肖像画」
(1826年、ヴィセンテ・ロペス・イ・ポルターニャ画)
油彩、93×75cm、プラド美術館蔵