Autor del artículo

Kiyonari Nagamine
永峯清成
ながみね きよなり
1954年岐阜県生まれ。フォトジャーナリスト。
24歳の時の1年間世界一周の旅で、アンダルシアの小さな町Lojaと出会い、以後、ほぼ毎年通う。その他、スペイン語圏を中心に、庶民の生活を撮り続けている。

【写真展】 スペインの小さな町で(冨士フォトサロン)、遠い微笑・ニカラグア (〃)など。

【本】 「ドン・キホーテの世界をゆく」(論創社)「コロンブスの夢」(新潮社) 「リゴベルタの村」(講談社)などの写真を担当。

ハポンさん 望郷の想い

2013年08月

 セビリャの南、コリア・デル・リオのことについては、読者はすでにとくとご承知のことと思われ、これ以上説明する必要もない。そこでここでは、日本側からではなく、彼らハポンさん側の一人の人物について述べてみたい。

 1998年に、私は初めてそこを訪れた。600人のハポンさんを代表する、カルバハル・ハポン氏に会うためだった。彼の説明によると、1992年に、支倉常長の出身地の仙台から、彼の銅像が贈られてきた。そしてそれを機に仙台と交流が始まり、彼もそこを訪れ、支倉家のお墓にもお参りをした。彼はその時に見た日本の田園風景の美しさに憧れ、できればそこに住んでみたいと強く思ったという。

 その後私は、セビリャへ行くたびに彼にあった。独身で、おまけに私設の博物館を自宅に造ったりする変り者だった。ところが私は、その頃から、彼がこの地のハポンさんをどれだけ掌握しているか、またハポンさん自身も、どれだけ自分たちのことを自覚しているかということに、いささか疑いの気持ちをもち始めたのである。

 あるとき彼は、ハポンさんが多く集っているバルに、私を連れていってくれた。そこにはざっと、10人ほどのハポンさんがいた。彼らはまぎれもなく、日本人だった。体型と顔が、周りのスペイン人よりも低く、小さい。それはまさに、数十年前の日本人の姿だった。

 そもそもハポンさんの成り立ちについては、ここではそれを証明する資料は何もない。しかし現に私が見た彼らの相貌こそが、間違いなくハポンさんなのだ。ところが、彼らは、日本人ほどには歴史好きでもなく、自分たちの先祖の出自についても興味が殆どなく、私にとっては期待外れであった。

 2005年に、カルバハル氏は急死した。69歳だった。彼は最後まで、日本の田園風景に憧れていた。それはせつない望郷の想いだった。しかしその夢は、ついにかなえられなかったのだ。記念のこの年に、どんな行事があるのか。ただ私は、日本側から押しかけて行くだけではなく、双方からの行き来がもっとあればと願っている。それがカルバハル氏の、望郷の想いを果たすことにもなると思うのである。

文 永峯 清成


支倉常長の像とハポンさんたち
東日本大震災のときは、
左の少年が着ているTシャツを売って寄付を集めた


 スペイン南部のセビリャ近郊にあるコリア・デル・リオ市という人口約3万人の街に、「ハポン」(スペイン語で日本の意味)という名字の人が650人以上も住んでいるといわれます。今から400年前に仙台藩主・伊達政宗の命を受けて石巻(宮城県)を出発した「慶長遣欧使節」はメキシコを経由してスペインに到着、マドリードで時の国王フェリペ3世と、またローマで時の教皇パウロ5世と謁見。その後、再度スペインに戻ってセビリャから帰路につきました。しかしながら、使節一行の一部の藩士がコリア・デル・リオに残って土地のスペイン人女性と結婚してそこに住みつき、代々ハポンの名字を受継ぎ今に至っています。ハポンさんは、「サムライの末裔」と信じられています。


ハポンさんたち
コリア・デル・リオには、ハポン姓を持つ人が650人以上存在する



町の文化センター内にある、故ビルヒニオ・カルバハル・ハポンさんを
記念してつくられた慶長使節団関連の展示室