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Autor del artículo

Yo Kawanari
川成洋
かわなり よう
1942年札幌で生まれる。北海道大学文学部卒業。東京都立大学大学院修士過程修了。社会学博士(一橋大学)。法政大学教授。スペイン現代史学会会長。主要著書『青春のスペイン戦争』(中公新書)、『スペイン戦争ージャック白井と国際旅団』(朝日選書)、『スペインー未完の現代史』(彩流社)、『スペインー歴史の旅』(人間社)ほか。

スペイン内戦が生んだ
「ロバート・キャパ」(Ⅰ)

2013年11月

 1913年10月22日、のちの「ロバート・キャパ」となるエンドレ・フリーマンが生まれる。彼の生家は、ハンガリーの首都ブタベストでかなり裕福なユダヤ系家庭であった。家業は職人や従業員を抱える大掛かりな服飾サロンで、父親はその家業を働き者の妻に全面的に任せ、朝から友達とカードやらお茶やらにうつつを抜かす、日本式に言えば、「髪結いの亭主」であった。

 エンドレが生後8ヵ月の時、1914年6月28日、世界中を震撼させる重大な事件が勃発した。オーストリア皇位継承者フランツ・フェルディナンド夫妻が、訪問中のボスニアの首都サラエヴォでセルビア系の青年に暗殺されたのだ。7月23日、オーストリアはセルビアに最後通牒を送り、28日、宣戦布告。29日、ロシアが部分動員令で以ってこれに応えるや、ドイツは8月1日にロシアに、3日にフランスに宣戦布告。翌4日、中立国ベルギーにドイツ軍が侵入したために、イギリスがドイツに宣戦布告。23日に日本が日英同盟を名目にドイツに宣戦布告する。こうして第1次世界大戦が勃発し、18年11月11日、ドイツの休戦条約締結とともに大戦が終結した。戦死者数はなんと900~1000万人にのぼった。

 当時オーストリア・ハンガリー二重帝国であったハンガリーは、この大戦に参戦し、敗戦国となる。エンドレが5歳の時であった。だが、この大戦末期に社会主義革命の波がブタベストに押し寄せ、ブルジョワ反戦民主派の連立政権を樹立するが、その政権が崩壊したために19年3月に共産党が社会主義共和国を樹立するが、その政権も同年8月1日、ルーマニア軍に支援された反共クーデターで倒されてしまう。わずか133日の天下であった。

 クーデターの総帥であるホルティ提督はハンガリーを完全に軍事的に掌握し、直ちに5000人もの左翼分子の処刑を命じ、7万人が獄舎に繋がれた。その翌年、ヨーロッパで最も早く「反ユダヤ法」が公布された。これは、ユダヤ人の子弟が大学や法律専門学校への入学を制限するためであった。大戦の敗北と社会主義政権樹立の背後にユダヤ人の策動があったというヨーロッパではよく使われるいつもながらの「ユダヤ人陰謀説」の風評がすでに広まっていたからだった。間もなく左翼とユダヤ人に対する無慈悲な「白色テロ」がハンガリーを席巻する。エンドレの自宅近くの路地裏などでユダヤ人学生が袋叩きにあう事件が頻発に起こるようになった。彼の両親は、息子たちを外出させないようにした。


「ロバート・キャパ」金原眞八 1954年
ROBERT CAPA, Shizuoka Station, Japan,
April 19, 1954 Photograph by Shimpachi Kimpara


 1919年6月に締結されたヴェルサイユ講和条約の一環として、20年6月に締結されたトリアノ条約によって、国境線が引き直され、ハンガリーの版図は三分の一に、人口は五分の一に減少した。敗戦国の中で、ハンガリーが最も多くを失ったのであった。逆に言えば、「戦争に勝てば、途方もなく儲かる」というさもしい観念が戦勝国側にちらつくことになった(日清戦争、日露戦争に連勝し、第一次世界大戦でこの千載一隅のチャンスを生かせとばかりに、「日英同盟」を口実に、イギリスの懸念を振り切り参戦した日本は、極東におけるドイツの利権をすべて奪取し、欧州列強のアジア不在をいいことに強力な軍事力を背景に中国に対する強硬な植民地政策を実施した。従って、ヴェルサイユ講和条約調印後、最大の激戦地であるマルヌの戦い跡を訪れた各国代表の中には、恒久平和を求めて国際連盟の創設に傾注する者もいた。西園寺公望全権代表とする百数十人の日本人派遣団のメンバーだった、若き日の近衛文麿や吉田茂はこの戦場跡と見て何を思ったであろうか)。

 さて、少し時間が先に飛ぶことになるが、1930年5月、17歳のエンドレは左翼学生運動に加担したという廉で逮捕される。一晩警察の留置所に拘留されるが、ハンガリーを出国するという条件で釈放される。彼がどのような経緯で釈放されたのか、真相は詳らかではないが、弟(のちに、「コーネル」とよばれる)によると、国家警察副長官イムレ・ヘテーニの妻が両親経営の服飾サロンの顧客で、そのコネで釈放にこぎつけたという。一介のユダヤ人テーラー職人が国家警察の大物に働きかけて息子を釈放してもらったとは俄かに信じられない。むしろユダヤ人左翼シンパだったので、鼻摘み者として、国外追放処分、となったのだろう。

 ともあれ、1931年7月、エンドレは、ウィーン、プラハなどを経由してベルリンに落ち着き、ジャーナリズムの勉強のためにベルリンのホーホシューレ・ヒュア・ポリテーク(ドイツ政治高等専門学校)に入学する。それにしても、時代が悪かったというべきか、29年にアメリカで起こった世界経済恐慌がヨーロッパ全域を席巻していた。失業とインフレの蔓延。これも「ユダヤ人金融財閥の暗躍」が過剰に喧伝され、ヨーロッパ各国でユダヤ人排斥と弾圧が顕在化する。エンドレの実家の服飾サロンも倒産の憂き目にあい、彼への送金が滞り、彼は学校を止めて、生活のために仕事を探さねばならなくなった。友人の勧めでベルリンの有名な写真エージェンシー「デフォト」で暗室担当助手として採用され、ここから写真の世界に入ることになる。この直後、運命の女神が微笑んだのだった。32年11月、亡命中のロシアの革命家レオン・トロツキーがコペンハーゲンで公演することになったが、「デフォト」のすべてのカメラマンが出払っていたので、責任者のシモン・グッドマンからトロツキーを撮ってこいとカメラを手渡される。当時として珍しい最新型の35mmカメラを持参していたために厳重な警備陣から排除されずに、被写体に接近でき、「弁舌のカリスマ」と謳われたトロツキーのドラマテックなスナップを夢中になって撮影し、その一枚の「演説するトロツキー」が雑誌『デア・ヴェルト・シュピーゲル』に御掲載された。19歳のエンドレが報道カメラマンとして実に幸先良いスタートを切ったのである。    


文 川成洋