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Autor del artículo

Shizuka Shimoyama
下山静香
桐朋学園大学卒。文化庁派遣芸術家在外研修員としてスペインへ渡り、マドリード、バルセロナで研鑽。スペイン各地に招かれリサイタルを行い、「スペインの心を持つピアニスト」と賞される。ラジオ、テレビ番組に多数出演、これまでに多くのCDや書籍をリリース。現在、スペイン・中南米音楽を含む多彩なレパートリーをもつピアニストとして活発な演奏活動を展開。またクラシック界において、翻訳・執筆・講演・舞踊とマルチにこなすユニークな存在として注目を浴びている。

Official Website サラバンダ
http://www.h7.dion.ne.jp/~shizupf

裸足のピアニスト・下山静香のブログ 
http://ameblo.jp/shizukamusica
スペインに魅せられたピアニスト
アルトゥール・ルービンシュタイン

2013年11月

 ロマン主義の時代から20世紀に至るまで、スペインに憧れた芸術家は数多い。モーロ人やセファルディが残した有形無形の文化、さらにロマ(ジプシー)、闘牛、美しい女性たち・・といった、エキゾティックでメランコリックでドラマティック!な要素が、彼らのインスピレーションをかきたてたのである。でも、憧れるだけでなく本当に「スペインを生きる」ことができた他国の芸術家は、実はそう多くなかったんじゃないかな、と思ったりする。 そんななか、スペインを心から愛し、またスペインからも愛された、世界的ピアニストがいたのをご存知だろうか?

アルトゥール・ルービンシュタイン(1887-1982)―― ロシア帝国支配下のポーランドに生まれたユダヤ人で、「ロマン派の巨匠」「ショパン弾き」として知られる。1909年、アルベニスが作曲した傑作《イベリア》の楽譜をパリで見て以来スペインに興味を持ったというが、そののちスペインと深くかかわるようになり、「スペイン音楽の伝道者」としても大きな功績を果たしたピアニスト。

 ルービンシュタインが初めてスペインを訪れたのは、サン・セバスティアンでの演奏会に出演した1915年。その翌年にはマドリードのステージに登場している。これらの演奏会の大成功により、スペイン各地で演奏するようになった彼は、マドリードに部屋を持ち、王立劇場やカフェなどで演奏して人気を博した。第一次世界大戦が勃発してポーランドに戻れなくなり、中立国だったスペインに活動の場を求めたという事情があったにしろ、スペインの水が彼に合っていたことは間違いない。なぜか? ―― その答えは、彼の生き方そのものに見ることができる。


<ルービンシュタインは恐れを知らず、自身の言うように"条件をつけずに"生きた。彼は「牢獄にいても幸せになれる」と言っている・・・>

(D.デュバル著『ホロヴィッツの夕べ』より)

 そんな生き方から自然にわき出てくる彼の演奏が、スペインの聴衆に熱狂的に受け入れられたのは、当然の成り行きだろう。構築性や精神性を重んじるドイツ的な音楽嗜好からみれば、享楽的だと言われてしまうかもしれないが、ルービンシュタインにとって、ピアノ演奏は「自分自身が楽しみ、人々を楽しませる」ためのものだったのだ。

 スペインでのエピソードには事欠かないが、例えば、案内されたコルドバの高級娼家でピアノを弾きまくり、娼婦たちからはキスと抱擁の雨あられ、請われるままピアノにサインまでして帰ってくるなど、世界中見渡してもルービンシュタインしかやらない(やれない)んじゃないだろうか。(一応補足しますと、このときの娼家主人からの「御礼」の申し出は丁重にお断りした、とのこと。)

 しかし、ルービンシュタインもやはり人間。ただ明るいだけの、悩みなき一生を送ったわけでは決してない。

 彼は若い頃、大の練習嫌いだった。練習しなくても舞台をこなせてしまう器用さと、人々を酔わせる稀な才能を持ちあわせていたのだ。しかし40代半ばになって、まさに彗星のごとく現れた次世代のスーパースター、ホロヴィッツの演奏を聴き、彼は大きなショックを受ける。「私は長いあいだ無知で傲慢で、自分の天与の音楽的才能を生かさなかったことを恥ずかしく思った」と自身が回顧しているように、生の喜びを謳歌するあまり、彼には演奏家としての寿命を保つために不可欠な「練習」が、決定的に不足していたのだ。ルービンシュタインは、ライバルの出現によって自分の態度を見直し、練習に打ち込むようになり、第一線のピアニストとしての活動を続けることができたのだった。

 ルービンシュタインのスペインもの演奏で広く知られているのは、映画《カーネギーホール》(1947年)でも披露している、ファリャの〈火祭りの踊り〉だろう。ルービンシュタインは、彼と正反対ともいえる性格のファリャと、深い親交を結んでいた。この曲に関する彼の演奏スタイルと解釈、それに対するファリャの控えめな困惑については、本誌第2号に書いたのでここでは繰り返さないが、ともあれこの映画によって、〈火祭りの踊り〉は世界的な人気を得たのだった。

 この曲については、他にもエピソードがある。この映画よりもずいぶん前のことだが、ルービンシュタインがファリャと一緒に演奏旅行をしていた折、ファリャは自分が〈火祭りの踊り〉の譜面を忘れてきてしまったことに気づいた。彼がうろたえていたところ、ルービンシュタインは「楽譜は一度見たことがあるから弾けるよ、心配ない!」とケロリ。そして、実際に弾いてのけてしまったというからすごい。「記憶力がいい」を通り越した才能であるが、もちろんルービンシュタインのことだから、自分流のアレンジが加わったことは想像に難くない。

 ルービンシュタインは、パリで知りあったモンポウの作品もお気に入りだった(モンポウは、《歌と踊り 第6番》を彼に捧げている)。両者はちょっと意外な組み合わせに思えるが、残されている録音を聴くと、テンポの絶妙な揺れ具合、洒脱さ、透明で外側に開けている音質など、確かに相性の良さを感じさせるのだ。

 スペイン内戦が始まった1936年に彼はスペインを離れ、その後20年間この国の土を踏むことはなかった。しかし1956年にスペインでのステージに復帰すると、長かった不在を補うかのように、ほぼ20年にわたり聴衆を沸かせ続けたのである。

 そして御歳90になって、あのコスタ・デル・ソルの高級リゾート地、マルベーリャに豪邸を建てたのだから、なんともハッピーな晩年だ。彼はそこで、長い音楽人生を振り返り、回想録をしたためた。

 ユダヤ人としてポーランドに生まれ、様々な国に住み、アメリカの市民権を得て、没後はエルサレムに還ったルービンシュタインーー。しかし、瞬間を愛し、今を楽しみ、多くの人を幸せにした彼にとっての「第二の故郷」は、スペインだったのではないだろうか。

下山静香