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Autor del artículo

Yo Kawanari
川成洋
かわなり よう
1942年札幌で生まれる。北海道大学文学部卒業。東京都立大学大学院修士過程修了。社会学博士(一橋大学)。法政大学教授。スペイン現代史学会会長。主要著書『青春のスペイン戦争』(中公新書)、『スペイン戦争ージャック白井と国際旅団』(朝日選書)、『スペインー未完の現代史』(彩流社)、『スペインー歴史の旅』(人間社)ほか。

スペイン内戦が生んだ
「ロバート・キャパ」(2)

2014年02月

 エンドレが世界的な社会主義革命家レオン・トロツキーの撮影に成功した翌年の1933年1月、彼の暮らしているドイツではヒトラーが首相となり、第三帝国が成立する。2月、国会議事堂放火事件が勃発し、放火犯人としてオランダの元共産党員マリヌス・ヴァン・デア・リェッペが現場で逮捕される。ヒトラー政府はこの事件を共産党の計画的犯行と断定して弾圧するとともに、緊急令を公布してワイマール憲法の基本権条項を停止する。3月、総選挙でかろうじて過半数を獲得したナチスは、共産党の議席剥奪や野党議員への恫喝など強引な手段を用いて全権委任法を国会で可決し、これによってヴァイマール憲法が無効となった。これ以降、ドイツはヒトラーの思う儘の国になってしまう。

 こうした状況下において、ユダヤ人であるエンドレはまずウィーンに避難する。当時、オーストリア=ハンガリー帝国最後の海軍提督で、ファシストのホルティがハンガリー首相におさまり、ユダヤ人や民主主義勢力を強権的に弾圧している祖国には戻る気になれず、「デフォト」の写真家ハラルド・レッヘンベルグのアパートに転がり込むが、思っていたような仕事が見つからず、6月にやむをえずブタベストの実家に戻り、故郷でさまざまな観光写真の撮影の仕事をこなす。それにしてもハンガリーでは民主勢力がすっかり弱体化してしまい、実家の家業もかつての勢いは見られず、雇っていた人を解雇し、ひっそりとその日暮らしをしているような状態だった。エンドレもプロの写真家としてやっていける見込みが全く立たなかったために、9月に友人のチーキ・ヴェイスとともにパリへ向かう。1930年代のパリは、すでに何千人ものユダヤ系ハンガリー人がファッショ体制下の祖国から逃れてきた安寧の地であった。2人とも、巣寒貧で、フランス語も喋れず、その上生活の足しになるような専門的な技術や知識を持ち合わせていなかった。カルチェ・ラタン界隈の安ホテルとはいえ、毎日の宿泊代や食費にも事欠く生活であった。リチャード・ウィーランの『キャパ その青春』(沢木耕太郎訳、文藝春秋)によると――

 着いて二、三週間すると、エンドレとチーキの金はすっかりなくなってしまったが、世界中で、パリほど空腹で文無しであることが辛い都市はないにちがいない。ほとんど一ブロックごとにパン屋があり、ケーキ屋があり、肉屋があり、そうざい屋があり、チーズ屋があり、果物と野菜を売る市場があり、カフェがあり、レストランがある。その匂いを嗅いだだけで、腹ペこの人間は気が狂わんばかりになった。

 2人は毎日の生活を維持していくために、食料品屋でのコソ泥、食堂での無銭飲食、食糧調達のためのセーヌ川での魚釣り、ホテル代金未納のためのカモフラージュ、市内で金を無心できるカモのハンティング・・・。これでは就職活動どころではない。しかも彼はユダヤ人である。名前をエンドレから、フランス語読みの「アンドレ」に変更したのも無理からぬことであったろう。

 そのうち、またもや、アンドレに、かすかな幸運が訪れる。駆け出しの若い写真家たち、アンドレ・ケルテス、ディヴィッド・シーモア(シム)、アンリー・カルティエ=ブレッソンらと出会い、親しくなる。

 金持ちで、立派な教育を受け、まるで貴族のフランス紳士のようなカルティエ=ブレッソンの目に映ったアンドレは「相手が誰であろうと態度を変えないアナキストであり、・・・アンドレは資格が第一という人間ではなく、生きることの意味を誰よりも良く知っている冒険家だった。大事なのは写真の技術ではなく、彼が何を言わんとしていたか、そして彼の人間性そのものだった」と回想している。この仲間の中で、アンドレはとりわけポーランド人のシムと親友になる。ともに東欧人としての感性とユダヤ人排斥体験という苦い絆があったからである。この三人はどのような関係だったのだろうか。再び、『キャパ その青春』を引用すると――

 アンドレとシムとカルティエ=ブレッソンの3人が一緒にいた時、彼らが写真について話すことはなかった。(中略)彼らが写真について話すとすれば、それは、記事のアイデアか、編集者への接近の仕方か、金の稼ぎ方かのどれかに限られていた。シムは定期の仕事を持っていたが収入は少なく、アンドレは実際的には全く無収入であり、カルティエ=ブレッソンは、そのプライドと政治的信念から、家族の財産と縁を切りたいと望んでいた。カルティエ=ブレッソンは、芸術家たるべく教育を受け、また常に自分をたまたまカメラを用いている芸術家と見ていたが、彼が望んだのは写真出版界で広く知られることであった。

 1934年9月、21歳のアンドレは、フランスの雑誌『ヴュ』の仕事で、第一次世界大戦後にフランス統治となった豊かな炭鉱と進んだ工業の町、ザールを取材する。少しずつフォト・ジャーナリストの道を歩み始めたのだった。それにしても、翌年1月に実施予定のこのドイツ語圏の町には、ファシズムが密かに忍び寄ってきていたのだった。 (続く)    


文 川成洋