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Autor del artículo

Shizuka Shimoyama
下山静香
桐朋学園大学卒。文化庁派遣芸術家在外研修員としてスペインへ渡り、マドリード、バルセロナで研鑽。スペイン各地に招かれリサイタルを行い、「スペインの心を持つピアニスト」と賞される。ラジオ、テレビ番組に多数出演、これまでに多くのCDや書籍をリリース。現在、スペイン・中南米音楽を含む多彩なレパートリーをもつピアニストとして活発な演奏活動を展開。またクラシック界において、翻訳・執筆・講演・舞踊とマルチにこなすユニークな存在として注目を浴びている。

Official Website サラバンダ
http://www.h7.dion.ne.jp/~shizupf

裸足のピアニスト・下山静香のブログ 
http://ameblo.jp/shizukamusica
アルス・クアトラ・ガッツ ~4匹の猫~

2014年02月

 文学キャバレーや文学カフェというと、まず花の都・パリを思い浮かべる方が多いのではないだろうか。なかでも有名なのが、1881年にモンマルトルで開業した「ル・シャ・ノワール(黒猫)」。ロドルフ・サリが仕掛けたこの店は、たちまち、ベル・エポックを象徴する一大社交場となる。芸術家たちの新作発表の場としても機能し、刺激を求めてやってくる人たちで賑わった。足しげく通った顔ぶれには、ゾラ、ヴェルレーヌ、ロートレック、スタンランなどがいる。音楽家としては、例えばドビュッシーがかかわっていたし、サティが一時期ピアニストとして雇われており(そして追い出された)、ラヴェルは、ここでピアノを弾くサティと出会って大きな刺激を受けたのだった。

 この興奮は隣国ドイツに伝わり、モンマルトルのキャバレーとは一味違った「カパレット」が生まれるのだが、西側のお隣スペインでも世紀末のそのまた末、「シャ・ノワール」をお手本とした芸術カフェが誕生する。それが、バルセロナ・ゴシック地区のカザ・マルティにオープンした、「アルス・クアトラ・ガッツ(四匹の猫)」だ(1897年)。

 猫にちなんだこの名は、もちろん「シャ・ノワール」と関係があるが、「4」という数字は、オーナーのペラ・ロメウ、提案者ミケル・ウトリリョ、そして経済的な支援者でもあるサンティアゴ・ルシニョールとラモン・カザスという、開店にかかわった芸術家仲間4人を暗示しているという。ちなみにスペインでは、「4」は「わずかの数」という意味で使われることもある。そのへんも、洒落でかけているのかもしれない。

「クアトラ・ガッツ」のような店が、他でもないバルセロナに出現したのは、必然と言えるだろう。もともと進歩的な精神土壌をもつこの都市は、ヨーロッパのムーヴメントに敏感で、それを受け入れる素地もあった。19世紀末から20世紀初頭には、「モデルニスモ」の中心地となっている。モデルニスモとは、フランス語で言うところのアール・ヌーヴォー。主に美術や文学の分野にみられた芸術運動、またはその様式である。ちなみに、マドリードにおけるモデルニスモはまた違う文脈で、もっぱらラテンアメリカ文学と連動した運動だったが、バルセロナのモデルニスモ(カタルーニャ語ではムダルニズマ)は、特に美術・建築において大きな花を咲かせたのだった。この新しい芸術・文化潮流は、カタルーニャ独自のアイデンティティを見直すという思想的な側面も持ちながら、ここバルセロナで活発に動いていた。

 それを育んだ重要な拠点のひとつが、「クアトラ・ガッツ」なのである。

 クアトラ・ガッツでは様々なイベントが行われた。展覧会、コンサート、詩の朗読、影絵芝居・・・。特に、映写される影絵と軽妙な口上、音楽が一体となった影絵芝居は、パリのシャ・ノワールで人気を博していた話題の総合芸術だった。そのアイディアを受け継ぐクアトラ・ガッツでも、影絵芝居は売り物のひとつとなった。オープンの半年後にはさっそく、クアトラ・ガッツのメンバーがデザイン、台本、音楽を手がけた作品が上演されている。

 当然の成り行きながら、この店はほどなくモデルニスモの芸術家たちのメッカとなる。カタルーニャのモデルニスモは、クアトラ・ガッツの椅子に座った人たちを抜きにしては語れない、と言われるほどだ。彼らはここで芸術論を交わし、ワーグナー談義にも花を咲かせていたと思われる。

ワーグナー熱をスペインで初めてキャッチしたのも、バルセロナだった。当時、スペインの音楽界をとりまく状況は、他のヨーロッパ諸国に比べてかなり遅れていた。例えば19世紀末、ベートーヴェンやシューベルトがこの世を去ってすでに60年以上が経っていたのに、スペインにおいては、彼らの音楽はまだ「現代音楽」だと思われていたのだ。ワーグナーしかりであったが、さすがバルセロナは、スペインの他都市に比べればまだ早かったのである(1882年、初めてワーグナーが演奏された)。そしてワーグナー熱の盛り上がりは、ある意味でモデルニスモにもつながっていく。そしてクアトラ・ガッツに集っていた人たちのなかから、ワーグナー協会が誕生したのだった。

 クアトラ・ガッツに多額の資金援助をしていたラモン・カザスは、モデルニスモにおいて重要な役割を果たした画家。彼自身が、店の経営者である友人ロメウと自転車に2人乗りする姿を描いた絵は、店のシンボル的な存在となり、現在でも店内に飾られている(複製。本物はカタルーニャ美術館所蔵)。どこにでも気軽に行ける自転車は、当時流行りのイケてるツールだったのである。

 カザスは、若きピカソにも少なからぬ影響を与えた。17歳の頃、バルセロナに出てきていたピカソ(1881-1973)はクアトラ・ガッツに頻繁に顔を出し、1900年、初めての個展を開く。10代という多感な時期に、前衛的な芸術文化の匂いが充満する熱気に浸っていたことは、ピカソの人生でも重要なトピックだったのではないだろうか。そして彼はここを足がかりに、パリへ出て行くのである。

 ガウディ(1852-1926)も現れた。リセウ劇場でワーグナーの楽劇に出会い、「自分にも総合芸術ができるのでしょうか?」とグエル伯に尋ねたガウディ。ワーグナーによってみずからの建築思想を刺激された彼は、クアトラ・ガッツでのワーグナー談議にも参加したのだろうか。

 音楽家の顔ぶれも華やかだ。アルベニスが《イベリア》の一部を演奏して聴かせ、マラッツがスペインセレナーデを奏で、グラナドスも登場。《アルハンブラの想い出》の作曲者でギタリストのタレガが、そしてキューバ生まれの作曲家ジョアキン・ニンが、コンサートを行った。

 クアトラ・ガッツ名物として忘れてはいけないのは、「テルトゥリア」だろう。当時のスペインはキューバなど最後の植民地を失い、国家として深刻な危機に直面していた。政治、哲学、芸術・・・議論すべきテーマには事欠かない。午後あるいは夜に行われ、徹夜で続くこともしばしばだったテルトゥリアだが、なかでも語り草になっているのは、文学におけるモデルニスモの旗手ルベン・ダリオ(1867-1916)が主宰したときで、この有名詩人の姿を見に、また話を聴きにきた人々で、店は朝まで超満員の盛況だったという。

 ペラ・ロメウは素晴らしいプロデューサーだったが、経営者としてのビジネスの才はなかったらしく(お金のない客からは代金をとらないなど、人も良すぎたようだ)、クアトラ・ガッツの経済状況はどんどん悪化。1903年ついに、たった6年ほどの営業で消えてしまう運命となる。

 実際の飲食以上に、精神の、そして感性の栄養を提供し、19世紀末のバルセロナを彩ったクアトラ・ガッツ。一瞬ではあったが、魅惑の輝きを放ち、様々な実りを残したのだった。

 それから100年以上を経た現在、当時の様子を再現した新生クアトラ・ガッツが営業を続けている。文化イベントも時折催されるが、普段は観光名所的なカフェレストランとなっているようだ。

 19世紀末のヨーロッパを巻き込んでいたあの興奮を、いま再び呼び起こすことはできるのだろうか ―― クアトラ・ガッツを訪れるたび、そんな夢を見てしまう私である。

下山静香


「二人乗り自転車に乗るラモン・カザスとベラ・ロメウ」
(1897年、ラモン・カザス・イ・カルボ 画)
油彩、カタルーニャ美術館蔵