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Autor del artículo

Yo Kawanari
川成洋
かわなり よう
1942年札幌で生まれる。北海道大学文学部卒業。東京都立大学大学院修士過程修了。社会学博士(一橋大学)。法政大学教授。スペイン現代史学会会長。主要著書『青春のスペイン戦争』(中公新書)、『スペイン戦争ージャック白井と国際旅団』(朝日選書)、『スペインー未完の現代史』(彩流社)、『スペインー歴史の旅』(人間社)ほか。

スペイン内戦が生んだ
「ロバート・キャパ」(3)

2014年05月

 ザール地方といえば、フランスとドイツの国境地帯にある、石炭などの重要資源を産するヨーロッパ屈指の工業地帯である。人口の90%がドイツ系であり、プロイセン―フランス戦争(1870~81年)の結果、ドイツに併合されたが、第一次世界大戦後のベルサイユ条約で国際連盟の監督下に自治制を敷き、炭田の所有・採掘権はフランスに譲渡された。というか、戦勝国フランス軍がライン川右岸を占領していた。それで、35年1月13日、この地帯は現状通りフランス領か、それともドイツ併合かをめぐって住民投票が行われることになった。フランスはもとより近隣諸国のマスコミはこぞってこの係争地の帰属をめぐって取材を展開し、フランスのグラフ雑誌『ヴュ』も、九月末に2人の若手のジャーナリスト――ゴルタと自称するユダヤ系ドイツ人の若者とアンドレ・フリーマン――を送り込み、代表的な産業資本家から炭鉱夫まで可能な限り多様な人物に取材をして、ザール地方の日常的な雰囲気をレポートすることであった。ゴルタが記事、アンドレが写真を担当することになっていた。ザール地方の中心的な町ザールブリュッケンはすでにナチス・ドイツそのものであった。鉤十字の旗やポスターがいたる所にあり、路上などでは荒々しい調子でナチス式の敬礼で挨拶をしていた。34年11月7日号「ザール燃ゆ――高まる緊張」、11月21日号「ザール――ザール住民は語る・・・・誰に投票するか」であった。だが、最初の記事には「文と写真 本誌特派 ゴルタ」とだけのクレジットが付けられていた。写真は間違いなくアンドレが写したものであった。当然彼は編集部にクレームをつけ、2番目の記事には「本誌特派 ゴルタとフリーマン」というクレジットが付けられた。これはアンドレが生活の本拠にするフランスでのデビューであった。しかも、このルポルタージュのおかげで『ヴュ』からはじめて記者証を受け取ることができた。

 この頃のアンドレについて、少し気になることがある。アンドレが初めてスペイン行く直前の、1935年3月25日、行きつけのカフェ「ドーム」からニューヨークにいる母親に以下のような手紙をしたためている。(リチャード・ウィーラン『キャパ その青春』沢木耕太郎訳、文藝文庫、2004.p.148)。

 僕は3日後に出発することになっております。もちろん、どうしていいかわかりません。僕はまだカメラを持っていないし、お金もたいしてありません。でも、これは最後のチャンスですし、できるだけ利用しなければなりません。昨日、ウルシュタイン社から前金として千フラン送ったという手紙を受け取りました、しかし、為替の手続きはとても複雑なため、三週間以内に届くことはないでしょう。

 さらにこの評伝は、「ほとんど最後の最後になって、アンドレは出発の当日に自分の懐具合をごまかし、なんらかの方法で新しいライカを買い入れた。もしかしたら頭金だけでも支払うというようなことをしたのかもしれない」と述べている。また別の評伝も「パリを離れるちょっと前に最新式のライカをクレジットで買って、成功のための手段を得ている。交換レンズが付いた初期のモデルで,おそらく1935年にドイツで発売されたライカⅢである」とやや具体的に機種を述べている。(ベルナール・ルフラン、ミシェル・ルフェーブル『ロバート・キャパ』太田佐絵子訳、原書房、2012、p.50)。

 はたしてキャパがライカを購入したという話は本当だろか。月賦、あるいはクレジットで購入するには相当の信用がなければならない。もしくは保証人が必要であろう。セーヌ左岸の格安のホテルを「夜逃げ」したり、毎日口にするパンすらままならなかった彼にはライカはもとよりフレックス型のカメラでも、とても手の届かない高根の花であったはずだ。ところで、当時、ライカの値段はどのくらいだったのか。日本国内では、「千円もあれば家が建つと言われた」ころに、「新品のズマールF2付きライカⅢaが七百円」といわれている。(神立尚紀『撮るライカ』光人社、2007.p.94~95)。従って、日本に持ち込めば、当時、東京で建売を一軒購入できるというのを私は聞いたことがある。これは若干大袈裟かもしれないが、ともあれ非常に高価なカメラであることに間違いない。だが、実際には、アンドレはライカを持ってスペインに行った。それではどのようにしてそれを入手したのであろうか。第二次世界大戦後、戦後の復興ぶりを取材するために、彼が来日するが、そのときスペインに持ち込んだライカとの関連で話をしたいと思う。

 アンドレがザール取材に赴く少し前の話になるが、1934年9月、ゲルダ・ポホリレスというユダヤ系ドイツ人女性と偶然知り合う。1911年3月生まれというから、アンドレより2歳年上であった。リチャード・ウィーランの前掲書(p.137)は、彼女をこう紹介している。

 ゲルダは、当時の人気映画女優エリザベート・ベルクナーに驚くほど似ていたが、赤みがかった明るい栗色の髪をボーイッシュなショート・カットにしていた。灰色がかった緑色の瞳の上には、眉毛が高くアーチ状にぐっと引かれていた。彼女は、5フィート1インチと背が低かったが、ふるまいに威厳があったのでそれ以上に高く感じられた。そして、彼女はアンドレと同じように貧しかったが、つねに自分を優雅に見せようとしていた。

 ゲルダの個性は容貌に似て際立ったものだった。友人たちは、彼女を、活発で、陽気で、頭が良く、回転が早かった、と言っている。彼女は可愛い女だった。彼女は力いっぱい生きているように見えた。彼女は美しい微笑みを持ち、小さな鹿のようなとても軽やかな歩き方をしていた。

 美しい、知的な女性と茶目っ気満々のズボラで、それでいてアンビシャスな若者が出会ったのはカフェ「ドーム」であった。2人とも傍から見れば美男美女の組み合わせであり、共通していること言えば、赤貧そのもののユダヤ人亡命者であった。知り合った当初はロマンスは生まれなかった、2人ともそれぞれ恋人がいたからだった。

  1935年4月、アンドレは、初めてスペインに向かう。『デフォト』誌のかつての上司、シモン・グッドマンの手配した仕事であった。スペイン・バスク地方から入国した。フランスとの国境をなっているビザソワ川、その橋の上に掛かる「国境の橋」。橋のフランス側にはフランス国旗、橋を渡り進むとその中心には真横にしっかりと国境線が引かれている、さらにその線を越えると対岸の橋のたもとにスペイン共和国旗がはためいているのだ、実に感動的な国境越えである。国境の町、イルンを通り、かつては王家の別荘、それに伴うかたちで外国の大・公使館の夏の別荘のある避暑都市サンセバスチャン、そこで7月にドイツでボクシングのチャンピオンをかけて戦うことになっているバリオーノ・ウスクドゥンの練習風景の取材、そしていよいよマドリ-ド。スペインで最も有名なパイロット、エミリオ・エレーラ陸軍中佐の気球で2万5千メートルの上空を飛ぶ準備中の取材、4月14日のスペイン共和国の第4回記念の大パレード、セビリャでの見物人が歩けないほどの賑わう「聖週間」の行列などの取材であった。

 こうした彼のカメラマンとしての真価を十二分に発揮したスペイン取材記事を収録した雑誌が売れに売たのは言うまでもない。パリで待望の休暇が取れたのである。 (続く)    


文 川成洋