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Autor del artículo

Shizuka Shimoyama
下山静香
桐朋学園大学卒。文化庁派遣芸術家在外研修員としてスペインへ渡り、マドリード、バルセロナで研鑽。スペイン各地に招かれリサイタルを行い、「スペインの心を持つピアニスト」と賞される。ラジオ、テレビ番組に多数出演、これまでに多くのCDや書籍をリリース。現在、スペイン・中南米音楽を含む多彩なレパートリーをもつピアニストとして活発な演奏活動を展開。またクラシック界において、翻訳・執筆・講演・舞踊とマルチにこなすユニークな存在として注目を浴びている。

Official Website サラバンダ
http://www.h7.dion.ne.jp/~shizupf

裸足のピアニスト・下山静香のブログ 
http://ameblo.jp/shizukamusica

マドリードの「8人組」
~ 歴史に翻弄された作曲家たち ~

2014年05月

 1930年代は、世界全体が不穏な方向へと大きく舵をきった時代である。長らく不安定な政情が続いていたスペインは、全土を巻き込んだ泥沼の内戦により荒廃し、遅ればせながら国際舞台で認知されるようになっていた「スペイン音楽」も大きな打撃を受けたのだった。

 少し時を戻した1920年代のスペインにおいて、「新しい音楽」を象徴する作曲家といえばマヌエル・デ・ファリャだった。ピアノ曲《ファンタシア・ベティカ》(1919)で音楽における知性を深めた彼は、さらに《ペドロ親方の人形芝居》(1923)と《チェンバロ協奏曲》(1926)により、スペイン音楽の新たな可能性を示す。いずれも、いわゆる「アンダルシア風」から脱却し、黄金世紀(16世紀)やゴヤの時代(18世紀)に代表される「カスティーソなスペイン」を、ユニヴァーサルで現代的な音楽として表現することに成功したのだった。その斬新な試みは、一般の聴衆には理解されなかったが、音楽界では高く評価され、近代スペイン音楽史におけるターニングポイント的作品となった。これによって、後に続く世代の作曲家は、ファリャを方向性の手本としながらも、みずからの個性を確立するためには彼を越えていかなければならないという状況に置かれたのだった。

 このころ首都マドリードには、そんな運命を背負いながら充実期を迎えようとしていた、若き作曲家たちが育ちつつあった。そして1930年11月29日、マドリードにおける芸術文化ムーヴメントの拠点の一つとして機能していた「学生館 (Residencia de Estudiantes)」において、「新しい音楽」によるコンサートが開かれる。彼らは、グスタボ・ピッタルーガ、ロドルフォとエルネストのアルフテル兄弟、サルバドル・バカリッセ、フリアン・バウティスタ、フェルナンド・レマーチャ、フアン・ホセ・マンテコン、ロサ・ガルシア・アスコートからなる、「8人組」と呼ばれるグループであった。作風に新古典主義的な傾向もみられることから、フランスの「6人組(プーランク、ミヨー、オネゲル、オーリック、タイユフェール、デュレ)」との類似性を指摘されることもある。特にプーランクとミヨーは、この学生館で講演とコンサートを行っており、マドリードの「8人組」に刺激を与えたと考えられる。「8人組」の関係は緊密で、数年間活発に活動を行い、(「6人組」が全員で活動したのはたった1回)、新古典主義、カスティシスモ、無調、12音技法、民俗音楽などがミックスされた「新しいスペイン音楽」への扉が開きかけたかにみえた。

 しかし彼らは、1936年に勃発したスペイン内戦によって離散を余儀なくされ、二度と集うことはなかったのである。彼らがたどった運命を、簡潔に記してみよう。

 「8人組」でもっとも重要な作曲家は、アルフテル兄弟である。兄ロドルフォ(1900-87)はメキシコに亡命し、以後メキシコを中心に中南米で活躍したが、その作風からスペイン色が失われることはなかった。後期には、ルネサンス期のスペイン音楽の語彙を活かし、国外からネオ・カスティシスモ(新しいスペイン生粋主義)的音楽を発信したのだった。「モンポウ以後もっとも注目されるべきスペイン人作曲家」ともいわれるロドルフォの作品は、故国スペインに逆輸入され、後進に影響を与えている。ファリャの最後の弟子の一人で、ピアニストとしても活躍した紅一点のR.G.アスコート(1901-2001)も、メキシコへと去った。ヨーロッパ諸国が受け入れを拒むなか、メキシコは国を挙げて、多くの亡命スペイン人に手を差し伸べていたのである。

 ファリャの高弟だったエルネスト・アルフテル(1905-89)は、20代にしてすでに、当時もっとも知られた現代作曲家となっており、高名な評論家アドルフォ・サラサルも彼を絶賛していた。エルネストは1936年までセビーリャ音楽院の院長を務めていたが、内戦を避け、以前から縁のあったポルトガルに拠点を移す。のちにスペインへ戻り、ファリャが精魂を傾けて取り組んでいた未完の大作カンタータ《アトランティダ》を補筆完成、初演するなどの仕事を行った。フランス音楽にも影響を受けた、スペイン版の新古典主義音楽を世に送り出した人物である。

 G.ピッタルーガ(1906-75)も、ファリャから大きな影響を受けている。内戦を機にアメリカへ渡り、中南米諸国へ旅して映画音楽の作曲などで生計を立てた。フランコ政権末期の1962年になってスペインへと戻ってきたが、晩年は政治的な発言も控え静かに過ごしたようである。

 J.バカリッセ(1898-1963)は、その活動の初期には当時もっとも優れた作曲家の1人と評価されていたが、その後はあまり進化しなかった。「8人組」活動の熱心な推進者で、ウニオン・ラディオなどを舞台に新しい音楽の紹介を企画し続けた。亡命前の作品には注目すべきものもあり、統一感はないものの、この世代を代弁するように進歩的な作風をもっていた。フランスに亡命後はスペインに戻ることなく、パリで死去する。

 J.バウティスタ(1901-61)は、新しい音楽潮流としてすでに定着していた無調とは縁遠かった作曲家のようだ。内戦以前に作曲した作品は、戦争の混乱により散逸してしまっている。内戦が終わるとアルゼンチンに渡り(ファリャも内戦終結後にアルゼンチンに行き、客死した)、ブエノスアイレスに居を定めるが、そこでは経済的困窮もあって作曲の才能をさらに発展させることはできなかった。生活のために映画音楽の仕事に追われたとされ、亡命によってキャリアに大きなハンディを負った作曲家の一人となった。

 「8人組」のなかで唯一、国内亡命の道を選択したF.レマーチャ(1898 -1984))は、さらに悲惨な例と言えるかもしれない。彼の音楽的傾向は「8人組」の他のメンバーたちとは異なり、フランスの流儀よりもイタリアに近いところにあった。ローマでマリピエロに師事し、1928年スペインに帰国、「8人組」のアクティヴなメンバーとなる。マドリード交響楽団のヴァイオリニストとして活動し、スペインの映画音楽作曲のパイオニアともなるが、内戦が始まると筆を絶ち、そのまま完全に沈黙してしまうのである。故郷トゥデラに引きこもり、サラサーテ音楽院(パンプローナ)の院長に就任する1957年まで表舞台には出てこなかった。彼の《ギター協奏曲》は、ロドリーゴの《アランフエス協奏曲》を超えるほどの傑作とされるが、演奏される機会はきわめて少なく、更なる紹介が待たれる。J.J.マンテコン(1895-1964)も、亡命という形こそとらなかったものの、音楽界の現場とは距離を置き、マドリードの自宅で個人レッスンを授ける生活を送った。

 音楽の革新を目指すエネルギーにあふれて活動を開始した「8人組」だったが、ここまで見てきたように、メンバーの何人かはスペインの音楽史から消えてしまう運命をたどり、グループとしての活動も、長らく忘れ去られる憂き目にあったのである。「8人組」のメンバー以外にも、オスカル・エスプラ、ロベルト・ジェラール、ハイメ・パイッサ、バルタサール・サンペール、パウ・カザルスなど、スペイン脱出を選択した音楽家は数多い。また、「第二のファリャ」と呼ばれ将来を期待された作曲家アントニオ・ホセは、ファランヘ党に捕らえられ処刑されている。優秀な人材が一気に不在となった結果、「新ルネッサンス」時代の到来かと思われたスペインの音楽界は、その後しばらく勢いを失うこととなるのである。

そんな苦難の時代を経て、いま、スペインの現代音楽界はエネルギッシュに活動している。「8人組」をはじめとする亡命作曲家たちについても研究が進み、再発掘、再評価の動きがある。こんなところにも、どんな状況にも屈することのないスペインの生命力を感じずにはいられない。

下山静香