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Autor del artículo

Chieko Uchida
内田千重子 / うちだちえこ
愛知県立大学非常勤講師。 専門はスペイン美術(サルバドール・ダリ研究)。
スペイン留学中に観たダリ展に感銘を受け、ダリ研究の道を志し、現在に至る。
趣味は美術館巡り・街歩き。

画家ダリを
創造した女性ガラ

2014年08月

 サルバドール・ダリが20世紀を代表する世界的に有名な画家であることに異論を挟む人はおそらくいないでしょう。フィゲラスにあるダリ劇場美術館に世界中から観光客が押し寄せ、様々な国でダリ展が開催されていることがその証と言えるのではないでしょうか。そのようなダリですが、自らの力で著名な画家としての地位や名声を手にしたわけではありませんでした。もちろん、若い頃から画家としての技能は卓越していましたし、彼の力によるところも幾らかはあるのでしょうが、繊細で内気な性格のダリが自分の力で画家としての未来を切り開いていくことは困難でした。そんなダリを支え、一人前の画家へと導いたのが、1929年に出会い後に妻となるガラです。


ガラとダリの寝室


 1929年4月、パリで詩人ポール・エリュアールと知り合いになったダリは、その年の夏の休暇をカダケスで過ごすようエリュアールを招待します。その招待を受け、7月にエリュアールとともにカダケスにやって来たのが当時エリュアールの妻だったガラでした。ダリがガラに一目ぼれしたのとは反対に、ガラのダリに対する第一印象は「我慢できないほどいやらしいアルゼンチンタンゴダンサーめいた伊達男」だったといいます。しかし、ダリと接するにつれ、ダリが持つ精神的な危うさや画家としての天賦の才能を知ることとなり、ガラのうちにダリを癒しその才能を解き放ちたいという欲求が芽生えていきます。ダリより10歳年上のガラは「私の坊や!わたしたち、もう離れられないわ。」と言い、以後ダリと生活をともにするようになります。


ポルト・リガットのガラとダリの家
わずか4メートル四方の漁師小屋を改装して住み始めた家は、
その後拡張工事を繰り返し、複雑な構造を持つ大きな家となった。


 傲慢、貪欲、色情狂など芳しくない評判の多いガラですが、ダリとの共同生活を始めてから暫くの間は非常に献身的でした。ダリの「偏執狂的-批評的方法」を携えてパリでシュルレアリスムの中心人物アンドレ・ブルトンに積極的にダリを売り込んだのも、ダリの絵を売ろうと熱心に画廊や社交界に働きかけたのもガラでした。二人が居を構えたポルト・リガットでは貧しいなか工夫を凝らして食事を作り(これは以前のガラには考えられないことでした。)、ダリに様々な助言を与え、「あなたは天才よ。」と励まし続けました(これは以前のガラにも見られたことですが。)。1930年代のダリ作品には傑作が多数存在しますが、それらが誕生するのに大きな役割を果たしたのは、紛れもなくガラでした。ダリは後年インタビューで「芸術面でのガラの影響は?」という質問に対し、「それまで自分は月並みだと考えていた僕にガラは自信を与えてくれました。彼女は僕の才能を見抜いていたのです。」と答え、「ガラに感謝していることは?」という問いには「全てです。」と答えています。


カダケスの入江1929年7月にガラとダリが出会ったこの町は、
 終生ダリにとってガラと並ぶ霊感源だった。


 ガラの献身の甲斐もあり、ダリは徐々に社会的にも経済的にも成功を収めていきました。ダリ作品を収集する複数のコレクターの存在により、ガラはダリの作品を売るために奔走する必要がなくなり、自分に自信をつけたダリは人前で雄弁に話をする社交界の人気者となっていきました。このような変化は二人の関係にも変化をもたらし、以前ほどダリの世話をする必要がなくなったガラは、1940年代半ば頃から公然と浮気を繰り返すようになりました。1950年の《ポルト・リガートの聖母》以降、ダリはしばしばガラを聖母や聖女の姿で描きましたが、そこには崇高な存在としてガラを描くことによって、二人の関係の変化を正当化しようとするダリの考えが込められているかのようです。そのような二人の距離は、1960年代に入りダリの周囲で騒々しいパーティーが繰り広げられるようになると、ますます広がっていきました。


《20メートル離れるとアブラハム・
リンカーンの肖像に変貌する地中海を見つめるガラ》


 1974年9月23日、フィゲラスのダリ劇場美術館が開館しました。この頃、ダリとガラは一緒に行動することはほとんどなく、開館当日もダリは友人のアマンダ・リアと、ガラは愛人のジェフ・フェンフォルトとともに美術館を訪れました。ガラはかつてダリに対して行なったのと同じように若い愛人を励まし、その才能を開花させることに情熱を注いでいました。ダリに対する興味を失ったかのように見えるガラですが、アマンダ・リアが「もし、私の身に何かあれば、ダリの面倒を見るとあのイコンに誓ってほしい。」とガラに迫られたと回想していることから、ガラがダリのことを気にかけ続けていたことを窺い知ることができます。


図書室ダリが創作活動や昼寝をしている間、ガラはよく本を朗読していた。


 1982年にガラが亡くなった時、ダリは「人生の舵取りを失った。」と言って嘆き悲しみ、1984年に大やけどを負うまでガラが埋葬されたプボル城で過ごしました。作品によくガラの姿を描いたダリは、「ガラだけが現実だった。ガラの肖像画を描くことが私の仕事であり、私の思想であり、私の現実だった。」と述べています。

文・写真 内田千重子