「バレエ・リュス」とスペイン その3
下山静香 Shizuka Shimoyama

 時は1918年。興行を終えたリスボンでしばらく足止めを食っていたバレエ・リュスが、再びスペインへと戻ってきたのは、3月も末のことである。

 苦しい経済状況にはあったものの、団員たちにとってスペインでの暮らしは快適だった。中立国スペインでは戦争の気配から少しは離れていられる、ということも大きかったが、特にロシア出身の団員たちにとっては、ロシアとスペインにみられる親近性がポジティヴに作用していたのではないかと思われる。ロシアではもともと、ロシアとスペインの文化はどこか共通したものがあるという考えが広まっていて、スペインに親近感を覚えるロシア人が少なからずいたようである。そんな背景もあってか、このラテン=スラヴ文化信仰を新しい芸術作品に昇華させ、ヨーロッパに根強いドイツ文化崇拝に対抗したいという思いが、ディアギレフのなかに生まれていた。

 さかのぼること2年前、ディアギレフは、スペインを代表する作曲家マヌエル・デ・ファリャにコラボレーションをもちかけていた。このときディアギレフがバレエ化を提案した曲は、《スペインの庭の夜 ピアノとオーケストラのための交響的印象》だったが、オーケストラの扱いがデリケートなこの作品でバレエを制作するのは難しいのではないか、と思ったファリャは申し出を断っている。

 その後連れだって訪れたアンダルシアがすっかり気に入ったディアギレフは、この地を舞台にしたバレエをつくりたいと考えた。原作候補として、民間に伝わる話をアラルコンが小説化した『代官と水車小屋の女房』が挙がった。ディアギレフとの話し合いはその後中断されたが、ファリャはこの物語を題材として、室内オーケストラとパントマイムのための作品(台本:マルティネス・シエラ)を書き、1917年4月にマドリードで初演を行っている。しかし舞台作品としてはいくつか欠点もあり、ファリャは、もっと本格的で幅の広い作品にしたいと考えていた。そして、これをバレエ・リュス用に改作することにしたのである。タイトルも、原題の《三角帽子》に改めた。  

 

 スペインを題材にしたバレエを制作するなら、踊り手は“本物”のスペイン舞踊を習得する必要がある。ディアギレフは団員たちに、スペインの踊りをよく観察し、そのエッセンスを吸収するよう求め、振付家でもあるレオニード・マシーンは、スペイン舞踊のステップの研究に時間を費やした。当時のスペインは、伝統的な民俗舞踊が盛んなことではヨーロッパ随一と言ってよかった(これは今もあまりかわっていないだろう)。カフェ、居酒屋、ダンスホールなどに行けば、スペイン舞踊に触れる機会には事欠かなかったし、師匠が弟子にテクニックを伝授する舞踊学校も発達していた。バレエ・リュスにとってスペインは、芸術上のあらたな収穫の場となったのだ。

 この新作に熱中していたディアギレフではあったが、一方で、冷静なプロデューサーとしての彼は、巡業がバルセロナで終了したあとのことを気にかけていた。そして、ロンドンの劇場ならば望みがあるとみて、さっそく交渉を始め、コロシアムで数カ月間の公演を打つ契約にこぎつけた。先行きに不安を感じていた団員たちが、その報を聞いて大いに喜んだのは言うまでもない。

 全公演が満席となったバルセロナでのシーズンを無事に終え、イギリスに出発する準備が整ったところで、問題が生じた。ドイツのUボートに攻撃されるリスクを避けてイギリスに渡るには、フランスを通っていかなければならないのだが、フランス当局が通過ビザを交付しないと通達してきたのである。ロシアはこの年の3月、大幅な領土的譲歩のうえドイツと単独講和を結び、大戦から離脱しており、それに腹を立てたクレマンソーが「ロシア人にはフランスの国土を踏ませない」と決めたのだった。このときも、窮地を救ったのはスペイン国王 ―― バレエ・リュスとディアギレフがスペインにやって来てから、常に心強い後援者でいてくれたアルフォンソ13世だった。国王がパリのスペイン大使を通じて便宜を図ってくれたおかげで、3週間遅れでビザが交付され、団員たちは無事ロンドンへと出発することができた。

 コロシアムでのシーズン開幕は9月。コロシアムは、劇場というより大衆的なミュージックホールだったのだが、話題のバレエ・リュスが生み出す新しい芸術が観られるとあって、ニュータイプの知識人やブルジョワ、前衛を好む人々が興味津々で押し寄せた。初日のソワレにはマシーン振付による《上機嫌なご婦人たち》を上演。初めてマシーンの作品に接するロンドンの観客の反応を注視していたディアギレフは、公演の大成功をみて自信を深めた。また、ロンドンの観客は、ピカソがバレエ・リュスの仕事をしていることを歓迎していると知り、ピカソとの関係をさらに強化するべく動き始める。

 11月11日、4年にわたり続いた第1次大戦が終結した。街中が歓喜にわくなか、ディアギレフは、ピカソとのコラボ作品である《パラード》のロンドン初演と《三角帽子》初演の準備に余念なく、新しい年を迎える。

 

 さて、《三角帽子》の成立に欠かせなかった人物がもう1人いる。セビリャ出身の天才的な踊り手、フェリックス・フェルナンデス・ガルシアである。彼は複雑なサパテアードを記録する方法を編み出していたし、唄いながら踊ることもできた。その素晴らしい踊りを見たディアギレフは、さっそく彼を雇い入れた。マシーンにスペイン舞踊を伝授してもらい、本人も出演させようと考えたのである。ロンドンに同行したガルシアは、マシーンにフラメンコ舞踊やカンテ・ホンドの真髄を教えた。おかげで、マシーンは目覚ましい上達をみせるが、ガルシアにとってロンドン行きはあだとなってしまった。彼はもともと即興を得意とする踊り手であり、決まった振付で踊ることを強いられる状況には順応できなかったのである。ガルシアの精神状態は不安定になり、ストレスが高じてついに神経衰弱を発症、舞台への出演もとうてい不可能となった。彼が迎えた末路は、異国の地で精神病院に入れられたまま生涯を終える、という悲しいものだった。この運命は、かつてバレエ・リュスの花形だったニジンスキーを思い起こさせる。ディアギレフという強烈な個性が、図らずも呼びよせてしまった悲劇なのだろうか……。

 ガルシアを失い、深いショックを受けたディアギレフだったが、何があろうと公演は成功させなくてはならない。準備は着々と進み、2人のスペイン人芸術家、ファリャとピカソが参加したバレエ《三角帽子》は、いよいよ初演を迎えるのである。

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