ガルシア・ロルカと音楽 その6
下山静香 Shizuka Shimoyama

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ロルカへのオマージュ3 ─そして ブエノスアイレスのロルカ─

 前号では、フランスのプーランク、そしてソ連のショスタコーヴィチによる「ロルカへのオマージュ」をみてきた。今回はまず、20世紀前半に活躍したメキシコの作曲家、シルベストレ・レブエルタス(1899-1940)の作品に触れてみよう。

 レブエルタスは、ヴァイオリニスト、指揮者としても活動した作曲家で、同年生まれのカルロス・チャベスとともに、同時代のメキシコ音楽の普及に努めた人物である。完全な左派だったレブエルタスは、1936年、メキシコの「革命的作家・芸術家同盟(LEAR)」の会長に就任している。LEARは、ファシズム、トロツキズム、帝国主義に反対し、サンディカリズムとスターリニズムを擁護する立場をとっていた。ちなみにメキシコは、スペイン共和派の亡命者を積極的に受け入れた数少ない国である。メキシコに亡命した著名なスペイン人音楽家には、ロドルフォ・ハルフテル(ファリャの弟子。「8人組」のメンバー)がいる。

 レブエルタスは、ロルカが銃殺されたことに大きなショックを受け、その名も《フェデリコ・ガルシア・ロルカへのオマージュ》という作品を完成させている。初演が行われたのは1936年11月4日だから、ロルカの死からまだ3ヶ月も経たない頃である。メキシコ舞踏風の楽しい楽章に、シリアスな楽章がはさまれる形の室内管弦楽曲で、第1楽章と第3楽章は、まさにメキシコ的なリズムが躍る明るい曲調となっている。第2楽章は、ロルカ哀悼(Duelo por Garcia Lorca)と名付けられており、短いながら、どこかマルティネーテを連想させる不思議な雰囲気をたたえている。マルティネーテとは、ロマ(ジプシー)の生業のひとつだった鍛冶屋の仕事から生まれたとされる、フラメンコの古い曲種のひとつ。金床を打つ音を伴奏として歌われるものだが、この第2楽章では、シロフォンと弦楽器のピツィカートによるオスティナートが、そんな音を彷彿とさせる。

 翌1937年、レブエルタスはLEARのメンバーとともに内戦中のスペインに赴き、オーケストラを指揮するなど音楽活動を行っている。しかし、スペインで起きているあまりにも悲惨な現実を目のあたりにして、無力感と悲壮感に打ちのめされてしまう。フランコ率いる叛乱軍が勝利し、メキシコに戻ったレブエルタスは、酒量が増えアルコール中毒に陥り、内戦終結の翌年、40歳という若さで亡くなってしまうのだった。

 ラテンアメリカといえば、ロルカ自身も赴いている。1930年にはキューバを訪れているが、より長く滞在したのはアルゼンチンである。1933年3月、戯曲《血の婚礼》の初演にあたって、ロルカは当時人気絶頂だったアルゼンチン人女優ロラ・メンブリベスに母親役を演じてもらいたいと思っていた。彼女はすでにスケジュールが混んでいてスペインでの興行には参加できなかったが、帰国前にロルカと会い、この作品をブエノスアイレスの劇場にかけることで合意する。

 メンブリベス一座は、さっそくアルゼンチンやウルグアイで《血の婚礼》を上演、大成功を収めた。ロラの夫兼マネージャーのレフォルソは、ブエノスアイレスでの再演にはぜひ原作者であるロルカにも来てほしい、と要請を出していた。また、ブエノスアイレスの芸術同好会から講演の招聘を受けたこともあり、アルゼンチン行きを決めたロルカは、9月29日、船でバルセロナを発つ。ブラジル、ウルグアイを経由し、2週間後にブエノスアイレスに到着、すでに名声を得ていたロルカは、各地の人々に熱狂的に迎えられた。

 当時ブエノスアイレスでは、タンゴ熱が高まりをみせていた。ロルカはこの町で、同じ言語を使いながらも、スペインで聴かれる音楽とは異なるタンゴ ── その音楽と詩を、持ち前の繊細な感性で味わったに違いない。ロルカは常に、民謡、すなわち「人々の営みから生まれる唄」に深い愛着を感じていた。凝縮されたアンダルシアの魂とも言うべきフラメンコを愛したロルカが、ブエノスアイレスの空気を吸って育ったタンゴに魅かれ、その価値を認めたのも、ごく自然なことと言えるだろう。フラメンコの真髄であるカンテ・ホンドがたたえる悲劇的な心情、どうにもならない苦しみや嘆きを、タンゴはタンゴの流儀で表現している…… 特に、「愛」にまつわる不幸について、両者はそれぞれのスタイルで歌い、人の心をとらえているのだった。

 11月16日、ロルカは、タンゴ界のスター、不世出の歌手と賞されるカルロス・ガルデルと知り合う。ロルカは、セサール・ティエンポ原作による舞台の劇場リハーサルに立ち会ったあと、彼と出会ったのだった。大いに意気投合した2人は一晩中歌い、また語り合った。ガルデルはロルカに、「君は、いつタンゴを書いてくれるんだい? 君たちアンダルシア人は、僕たちと同じようにセンチメンタルな人種だから(きっと書いてくれるだろうね)」と言ったという。この1年半後、ガルデルは、飛行機事故で不慮の死を遂げることになるのだが……。

 ロルカはこの地で、タンゴ作詞家・作曲家のエンリケ・サンチェス・ディセポロとも友情を結んだ。彼の代表作《ジーラ・ジーラ》などを、ロルカも聴いているはずである。

 しかしロルカは、どこまでも「アンダルシアの子」であった。どんなに魅力的でも、「ブエノスアイレスの心」を歌い奏でるタンゴは彼の領域ではなかったのだろう。

 ブエノスアイレス滞在は半年に及んだ。その間、ロルカの人気は衰えを知らず、新聞や雑誌に登場しない日はないほどに注目された。2度目に行った講演では、スペイン民謡のピアノ弾き語りを披露して、人々に「音楽家としてのロルカ」も印象づけたのだった。

 ロルカは翌年4月、再び航路でスペインに戻る。不在だった半年のうちに、スペインの政情は変化していた。セマナ・サンタ(聖週間)を過ごすために帰った故郷グラナダも、議会が保守派に取って代わられ、労働者階級を高圧的に扱うようになっていたのだった。

 そしてその2年後、内戦が勃発することになるのである。

 「ロルカへのオマージュ」は、彼の作品と深いつながりのあるフラメンコの世界でも顕著だ。《ロルカのスペイン古謡》は、クラシカルなスペイン歌曲の定番レパートリーになっているのみならず、カルメン・リナーレスをはじめとする唄い手たちにもフラメンコのスタイルで歌われているし、2010年に惜しまれつつ亡くなった巨匠エンリケ・モレンテも、ロルカの詩によるカンテを数多く歌っている。

 ロルカの世界はこれからも、様々なかたちで語り継がれ、演じられ、また歌い演奏されていくことだろう。私としては、「音楽家になりたかったロルカ」の一面を、見つめていきたいと思うのである。

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