フェデリコ・ガルシア・ロルカ讃歌
川成洋 Yo Kawanari

Oda a Federico García Lorca

 

 スペイン内戦勃発(7月17日)のほぼ1ヵ月後の8月19日払暁、詩人・劇作家・音楽家・画家のフェデリコ・ガルシア・ロルカは、彼の故郷グラナダ郊外のビスナールにある、「大いなる泉」と呼ばれる泉近くのオリーブ畑の中で、フランコ叛乱軍側の暗殺集団(具体的には、5月の再選挙で落選した元国会議員ラモン・ルイス・アロンソの率いる「黒色隊」)によって無残にも銃殺されたのだった。前途洋々の38歳だった。

 ロルカがファシストに殺されたらしいという噂が共和国側の新聞に載ったのは、それから3週間後のことであった。フランコ叛乱軍に完全に武力制圧されたグラナダから、命からがら脱出してきた共和派の証言により、やがてロルカの暗殺については単なる噂などではなくて、確かな事実であると判明し、やがてスペイン語圏のみならずに、ヨーロッパ諸国の新聞にもこの驚愕すべき事件が報道された。1936年10月13日付のグラナダ叛乱軍当局への電報にはこう書かれている。「ロンドン・ペンクラブ会長H・G・ウェルズは、著名なる同僚フェデリコ・ガルシア・ロルカ氏の消息を是非知りたく、ご返事をお待ち申し上げる次第です」。それに対する返答は「グラナダ県知事よりH・G・ウェルズ氏へ。フェデリコ・ガルシア・ロルカ氏の消息については不明であります」であった。

 1940年にグラナダ市当局が作成した正式の死亡証明書には、ロルカは「1936年8月、戦傷により死亡」と記されている。まるで流れ弾による不運な死であったかのように世間に公表されたのである。いまだロルカの遺体は発見されていない。

 昨年、ロルカが虐殺されて80周年。スペインで、あるいはグラナダで、ロルカにまつわるなんらかの大々的な催しが行われたであろうか。寡聞にして、よくわからないが、そのようなことは行われなかったであろう。ともあれ、ロルカ虐殺の事実を隠蔽してきた陣営が、相変わらずスペイン観光の目玉として活用しているあさましい不見識さに驚かされるが、これこそロルカに対する冒涜であろう。

 ロルカの最大の不幸はフランコ陣営に虐殺されたという事実だけではない。スペインを「中世の異端審問の国」に引き戻した、内戦の勝利者フランコによる完璧な思想統制体制(軍隊・公安警察・カトリック教会)によって、ロルカの作品までも、スペイン国内では完全に「封印された」のである。従って、これによってもロルカ本人は、まさにグラナダ叛乱軍当局が言明したように「1936年8月」以来名実ともに、地上に存在していなかったことになる。

 ロルカ虐殺の直後から、彼の諸作品は密かにフランスに持ち出され、そこからソ連に送られたといわれている。我が国で最初に翻訳されたロルカ文学は、ロシア語版からだと聞いたことがある。私の師匠で、長い間セビーリャのグアダルキビル川のほとりで毎日川を眺めつつ、中世ジェノヴァ語とコロンブスを研究し、セビーリャ大学日本語教授でもあった、今は亡き永川礼二先生(実は、先生は、日本では著名なシェイクスピア学者であり、外国語に翻訳不可能だといわれたアイルランド・モダニズム文学の旗手、ジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』を、1960年代に、丸谷才一・高松雄一両氏らと3人で翻訳したのだった)から、先生が陸軍士官学校在学中に、来るべき対ソ戦に備えてロシア語の勉強をしていて、敗戦直後に、ロシア語版のロルカ詩集を翻訳した、それは黒い表紙だった、と伺ったことがある。このことに関して、現在までの私には確かめようもないが、いつか真相がわかるだろう。もしこれが事実だとすれば、ロルカの再生は、日本から始まったといえるだろう。私は、ロルカ文学ファンのひとりとして、密かにこれを期待しているのであるが……。

 ロルカが、若い時に上梓した『歌集』(1921年〜24年)に「別れ」という短い詩が収録されている。

 ロルカがこの「別れ」を書いたのは、なんと20代の前半であった。これからわずか十数年しか生きられなかったロルカにとって、当時のスペイン社会はあまりにも残酷過ぎたのだった。いや、もしかして、現在のスペインにおいても同様に、ロルカの生きる場がないように思うのは、私ひとりではあるまい。

 


文 川成洋

PAGE TOP