追悼、堀越千秋さん。

2015年個展「ママー・デ・ミス・エントラーニャス(我が腸の母)」©Hidetoshi Kumagai

 

 実に遠くから聞こえるデカイ笑い声、いつも絶やさない笑顔。こんな人と出くわすとつい自分もそれにつられてしまい、自分が抱えている心のわだかまりも寸時にとけてしまう。そう、堀越千秋さんのことだ。

 彼と初めて会ったのは、1991年6月のマドリードだった。日本テレビの「スペインで活躍している日本人と会う」という対談番組だった。約束の時間にテレビクルーと一緒に彼のアトリエに着くが、そこに彼はいなかった。ドアに鍵がかかっていなかったので、撮影機材もあるし、ひとまずアトリエの中で待つことにした。無造作に壁に掛けられていた描きかけの絵を見ながら、われわれは独自の絵解きと品評をした。とても勝手気ままな絵解きであった。

 しばらくして、ドアのところからデカイ笑い声が飛び込んできた。堀越さんが二階に上がってきたのだ。彼の遅れた理由が狂っていた。アトリエのオーナーとちょっとしたことでもめたそうだ。そのオーナーが、なんとカトリック神父だったのに、愛人を作って「転んだ」のだった。どうも「転び神父」のことが気になるようだ。性格が悪いとか、何とか……、自己紹介を兼ねてこの重大な「宗教的」な議論がひとしきり続き、「ケシカラン!」という言葉が時々飛び出したのだった。私もこの種のテーマに興味があり、その極めつけは、1977年になるが、イギリスのケンブリッジ大学にいたころ、『タイムズ』紙の第一面を堂々と占領した出来事であった。カトリックがいわば「国教」になっているアイルランドの首都ダブリンの大司教で枢機卿、つまりアイルランド・カトリック教会の最高位の聖職者であるが、実は彼は相当前から愛人を囲っていて、二人の間の息子が見つかってしまったのだ。このスキャンダルなニュースが数日続き、元大司教一家はニュ−ヨークに移り、幸い彼はD.Phl.(神学博士号)を取得していたので、ちゃっかりアメリカで地方の大学教授に収まったという。だから神父ごときの女狂いにいちいち気を揉むべからず。スペインでは、数千件ぐらいこのようなケースがあって、みんな「転ばず」うまくやっているそうだ。それだけではなくて、「神父の妻帯を認めろ」といった運動も起こり、ヴァチカン当局も頭を抱えているようだ……。というのが私の結論だった。それにしても、初対面とはいえ、この話題が一挙にわれわれの距離を縮めたのだった。

 収録が終わり、近くの劇場で行われているフラメンコ・カンテのライブに直行した。たった一人の老カンタオールのカンテに、これほど多くの聴衆が酔いしれるとは、まったく驚いたのだった。

 堀越さんは、日本とスペインで交互に仕事をしていた。それも、絵を描き、エッセイ集を出し、陶器を焼き、さらに都内のタブラオでカンテを歌う。私も、何回か聴きに行った。まさにプロであったし、魂を込めて歌う品のいいエンターテイナーであった。カンテをスペイン語、そして場合によっては日本語でも歌うことがあった。スペインですでに、CDを何枚かリリースしていた。それに、真偽のほどはともかく、この声量でマドリードのラジオ局のマイクロホンを壊してしまったという武勇伝(?)の持主だそうである。

 私との仕事では、私が編集したスペイン関係書に、1981年2月のテヘロ中佐の国会乱入によるクーデター未遂事件、2004年3月のアトーチャ駅でのアルカイダによる列車爆破事件などに関して、マドリード在住の彼ならではの明快な解説をしてくれた。そして2005年11月、福岡県での「『ドン・キホーテ』出版四百周年記念パネルディスカッション」で同席したが、途中で突然、司会者から「カンテを」と促されて、「エー、こちらにおられる先生方とインテリジェンスあふれる会話をと思いましたが……(笑い)」と遠慮がちに言いつつも、ステージの真ん中に立ち、のカンテ「ソレア」を披露した。その直後、しばしの間、会場全体が水を打ったように静かになった。

《合掌》

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