2019年01月
「スペインを代表するピアニスト」といえば、真っ先にアリシア・デ・ラローチャ(1923-2009)の名前が挙がるだろう。私が小学生の頃、ラローチャは“鍵盤の女王”と呼ばれていた。よく聴いていたモーツァルトのLPの帯に、そう書いてあったのだ。ベートーヴェンのピアノ協奏曲第1番などもお気に入りで、私にとって彼女はずっと古典派のイメージだった。スペイン音楽のスペシャリストでもあることは、自分が実際にスペイン音楽に触れるようになるまでほとんど知らなかったというのが正直なところ。そしていざ知ってみれば……超難曲として知られるアルベニスの《イベリア》やグラナドスの《ゴィエスカス》はまさにお手本、絶対女王の迫力と風格にノックアウトされたことは言うまでもない。そんな雲の上のピアニストに直接会えて、しかもレッスンを受けられるなんて想像もしていなかったのだけれど、気付いたらそうなっていたのは幸運以外の何物でもなかったと思う。
6歳でリサイタルデビューを果たして以来、長年にわたり第一線で走り続けたラローチャが引退したのは、ちょうど私が日本に帰ってきた年だった。まだまだお元気なのにと驚いたその数年後にこの世を去ってしまわれてとても悲しかったけれど、遺してくれた数々の名盤はこれからもずっと聴き継がれていくことだろう。
ラローチャが生まれ育ったのはカタルーニャのバルセロナ。ここは今も昔も特別な「芸術の都」である。19世紀半ば頃から経済発展によってブルジョワが増加、音楽を楽しむ彼らの受け皿として劇場が創られ、音楽教育のレベルも引き上げられて、スペイン随一の音楽都市となっていったのだった。そんな雰囲気のなか、パリで研鑽したのちバルセロナに戻り個人音楽院を開いたジョアン・バプティスタ・プジョールの門下からは、逸材が次々と巣立っていく。アルベニス、グラナドス、ホアキン・マラッツ、リカルド・ビニェス……。彼らのピアニズムは明晰で色彩感にあふれ、優れたペダルのテクニックをもってピアノという楽器の魅力を最大限に引き出すもので、まるで即興しているように自然な演奏だったと云われている。そして、グラナドスがバルセロナで創設した音楽院を引き継いだ高弟のフランク・マーシャルに師事して才能を開花させたのが、ラローチャなのである。
ラローチャに出会う前、私はマドリードに住んでいて、彼女の妹弟子でスペイン王室のピアノ教師もしていたロサ・マリア・クチャルスキのもとで研鑽していた。ロサ・サバテル(1929-83)というピアニストのことは、彼女に教えてもらった。同年生まれなのだそうだ。サバテルもマーシャル門下で、ラローチャも含めて姉妹弟子仲間なのだった。サバテルは、カタルーニャが生んだ国際的女流としてラローチャと並び称されたのだが、50代半ばに差しかかりいよいよ円熟期という時に、飛行機事故の犠牲となって他界してしまったのが惜しまれる。彼女の弾く《イベリア》や《ゴィエスカス》は、女性らしい優美さと華やかさを併せ持つというのだろうか、ラローチャとはまた違う魅力をたたえてこちらも聴く価値あり。
スペインで初めて行った夏の講習会では、エステバン・サンチェス(1934-97)の存在を知った。同じく講習に参加していた10代前半と思しき男の子たちから「エステバン・サンチェスを聴いたことある?」と訊かれ、「ううん知らない」と答えると、口をそろえて「エステバン・サンチェスを知らないって? あり得ない、¡Tienes que escucharlo! ¡Es super!」と推してきたのだ。バダホスからやってきていた彼らにとって、同郷人のサンチェスは憧れのスターなのだった。しかし、ローカルな範囲にとどまるピアニストではないことは録音を聴いてすぐに分かった。アルフレッド・コルトーは、自分の弟子である彼を「20世紀の天才音楽家」と賞賛している。また、ダニエル・バレンボイムは、あるインタビューで「マエストロはいつアルベニスの《イベリア》を録音してくださるのでしょうか?」と訊かれ、「エステバン・サンチェスの演奏のあとには、もうほとんど付け加えるものがないでしょう」と答えたそうだ。
サンチェスは、私がスペインに住み始める2年前に急死してしまっていた。『エル・パイス』紙に掲載され訃報記事の見出しは、「スペインピアノ音楽の隠れた天才、エステバン・サンチェス逝去」。その稀有な才能は、国外に広く知られる機会に恵まれなかったのかもしれない。
もう1人、ひょんなことから知ったのが、サラゴサ出身の国際的ピアニスト、ルイス・ガルベ(1908-95)だ。この街に住んでいた時「会ってみたら?」と紹介されたのが、ガルベの未亡人ヘオルヒーナだった。彼女と仲良くなった私は、御宅を時々訪ねるようになった。時間を忘れておしゃべりをし、ガルベのピアノを弾かせてもらい、演奏録音を一緒に聴いた。ファリャもトゥリーナも絶賛したという彼のピアノに私が感じたのは、「品格」。特にスカルラッティなど各段の美しさだった。
「彼が生きていれば、あなたに会わせてあげられたのに……」というのがヘオルヒーナの口癖だった。でも、録音はいつもワンテイクだったというガルベの素晴らしい演奏を、彼の人柄と音楽を愛してやまない夫人と聴くことができただけでも幸せに思う。あの貴重な音源が、いつか何かの形で復活することを願ってやまない。
スペインには、“知られざる名ピアニスト”がまだまだ埋もれていそうだ。スペインらしいとも言えるのだけれど、彼らの多彩な演奏が多くの方の耳に届くようになったらいいな、と思う私なのだった。
下山 静香 / Shizuka Shimoyama
桐朋学園大学卒。99年、文化庁派遣芸術家在外研修員として渡西、マドリード、バルセロナほかで研鑽。NHK-BS、Eテレ、フランス国営ラジオなどに出演。海外アーティストとの共演多数。CD《ゴィエスカス》《ショパニアーナ》など10枚、共著は10冊以上を数える。翻訳書『サンティアゴ巡礼の歴史』。2015年より「下山静香とめぐるスペイン 音楽と美術の旅」ツアーシリーズを実施。桐朋学園大学、東京大学 非常勤講師。日本スペインピアノ音楽学会理事。
www.facebook.com/shizukapianista17
裸足のピアニスト・下山静香のブログ ameblo.jp/shizukamusica
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