2020年01月
『戦国日本と大航海時代─秀吉・家康・政宗の外交戦略』
平川 新 著
■中央公論新社
■2018年4月刊
■定価900円+税
1492年のスペイン。キリスト教徒軍によるイスラム勢力の放逐を目論むレコンキスタ(国土回復戦争)は、最後のグラナダ王国の無条件降伏によって終結した。実に800年におよぶ「西の十字軍」戦争だった。
さらにこの年、コロンブスの「西インド諸島」到着とスペインの新大陸征服があり、スペインとポルトガルが覇権を争う大航海時代が幕を開けたのだった。その2年後の1494年、ローマ教皇アレクサンデル6世の仲介によって両国が独善的なトルデシリャス条約を締結し、地球を二分して支配する「世界領土分割」体制が屹立する。教皇が要望したキリスト教の布教活動とスペイン征服戦争が一体化し、1502年から40年間に、中南米で2,580万人もの先住民が犠牲となった。スペインはこうした犠牲者から奪取した土地を「神からの授かりもの」と称し、自らの行動を神聖な「正義の事業」とみなしていた。さらに1580年、ポルトガル国王が空位になった際、当時のスペイン王フェリペ2世の母親がポルトガル王女イザベルだったので、彼は相続権を主張し、ポルトガル王フェリペ1世として即位する。スペインはポルトガルを合併し、世界一の植民地大帝国「陽の沈むことなき大帝国」になる。
超軍事大国スペインがなぜ群雄割拠する戦国時代の日本を植民地にしなかったのか? マルコ・ポーロ以来というべきか、それよりもすでに聖書の時代においてキリスト教徒たちは、信仰の中心であるエルサレムは天と地にかかっており、エデンの園はアジアのどこかに花咲いていると固く信じていた。しかし、アジアについて確かなことは誰も何も知らなかった。しかも何世紀もわたりイスラム圏という強力な政治的・文化的衝立の向こうにある世界、神秘に見えたアジアは紛れもなくキリスト教徒にとって「異境」であった。陸路が無理なら海路で。当然の理屈だ。イベリア半島において、「レコンキスタ」に完勝したスペインとポルトガルが次にアジアに貪欲な目を向けた。コロンブスを嚆矢として、多くのヨーロッパ人がアジアに蝟集した。彼らの垂涎の的だった「ジパング」こそ、いとも容易に占領できたはずである。この重大な問題は、日本史学界において等閑に付されてきた。
本書によると、秀吉は、2度の計30万人の兵力による朝鮮出兵に前後して、フィリピンのスペイン総督、ゴアのポルトガル副王に対して服従を強要し、両国より先んじて明国征服、天竺(インド)掠奪を宣言した。この秀吉の軍事行動を間の当たりに見て、スペインは日本の武力制圧を断念し、キリスト教の布教による日本征服へと大きく路線変更する。確かに家康も南蛮貿易と禁教との間で揺れ動いていたようだが、1615年に大阪夏の陣で勝利して以来、国家統一を確立し、毅然と禁教を公布した。政宗は家康の許可を得て1613年に慶長遣欧使節団を派遣するが、通商交渉に失敗して帰国した途端、政宗は領内にキリスト教禁制を布告した。
さらにもう1つの俄かに信じがたい重大な事実。東洋で活動中のスペイン人をはじめ、ポルトガル人、後続のイギリス人、オランダ人たちも、自国宛ての公的書簡の中で、秀吉や家康を「皇帝」、日本を「帝国」と呼んでいた。当時ヨーロッパで「皇帝」や「帝国」という呼称を使えたのは、唯一、神聖ローマ帝国だけだった(スペインでは、国王カルロス1世が、1519年、神聖ローマ帝国皇帝カール5世として即位した)。大航海時代のスペインは「王」に統治されていたにすぎず、これでは「皇帝」と干戈を交えることはできなかったのだ。
本書は、戦国時代から初期の江戸幕府までの外交戦略史を理解する上で裨益すること大であると強調しておきたい。
川成 洋 / Yo Kawanari
1942年札幌で生まれる。北海道大学文学部卒業。東京都立大学大学院修士課程修了。社会学博士(一橋大学)。法政大学名誉教授。スペイン現代史学会会長、武道家(合気道6段、居合道4段、杖道3段)。書評家。
主要著書:『青春のスペイン戦争』(中公新書)、『スペインー未完の現代史』(彩流社)、『スペインー歴史の旅』(人間社)、『ジャック白井と国際旅団ースペイン内戦を戦った日本人』(中公文庫)他。