2013年08月
日墨・日欧間に及ぶ壮大なスケールのもと、諸学上の一大アポリアの領域たる支倉常長・慶長遣欧使節一行が宮城県牡鹿郡月ノ浦を出帆してから本年10月28日で400周年の大きな節目を迎える。そこで本稿では、使節一行の足跡を駆け足で辿って見ることにする。
支倉使節団メキシコ・ヨーロッパに向けて船出する
1613年10月28日、伊達藩士支倉常長およびフランシスコ修道会のフライ・ルイス・ソテロ神父並びに総勢150余名の日本人が「サン・ファン・バウティスタ号」でメキシコおよびヨーロッパへ向けて月ノ浦港を出帆し、翌年の1月29日アカプルコ港に到着した。
この慶長遣欧使節は、メキシコとの直接通商交易の開始を目的にした幕府と伊達藩合同の「訪墨使節団」とスペイン国王およびローマ教皇に対する伊達政宗の「キリシタン王」叙任の認証請願や宣教師の派遣要請を主目的にした伊達藩単独の「訪欧使節団」の2つのグループによって編成されていた。
使節一行はアカプルコ港からイグアラ経由で、銀の産地タスコやクエルナバカを通り、3月24日、海抜2,300メートルのメキシコ市に到着した。使節一行は副王マルケス・デ・グアダルカサール候に謁見し、伊達政宗からの親書と「申合条々(和平条約)(案)」の文書のほか、徳川家康から託された進物を手渡した。メキシコ市では日本人随行員のうち64名がサン・フランシスコ教会で集団受洗をした。
同年5月29日、「訪欧使節団」は本隊と別れてスペインに向けてメキシコ市を出発した。そして同年6月10日ベラクルスのサン・ファン・デ・ウルア港からスペインの船隊に乗船。途中キューバに立ち寄り10月5日、南スペインのサン・ルカール・デ・バラメダ港に到着した。
スペインでの訪欧使節
1614年10月21日、訪欧使節団は、アンダルシアの州都・セビリャ市に到着した。太陽が眩しい町セビリャ、400年前に支倉が見た風景は今もこの町に息づいている。その時支倉は44歳、人生50年と言われた時代、全く異質なヨーロッパ文明に初めて触れた驚きは想像を絶するものがあったに違いない。
当時のセビリャの様子
使節一行はセビリャ市で大歓迎を受けた。一行は市庁舎を訪れ、市長のサルバチェルラ伯爵に政宗からの親書と進物の刀剣を手渡した。支倉らは同市の参議会議員や大司教などと会見した。
同年11月25日、使節一行はマドリードに向けて出発した。途中トレドではレルマ公爵の伯父のベルナルド・サンドバル枢機卿を表敬訪問し、12月20日に人口約10万人のマドリード市に到着。国王フェリッペ3世が指定したフランシスコ会の修道院に宿泊した。
1615年1月30日、支倉とソテロは、スペイン国王の謁見を受けた。支倉は政宗の親書と前述した「申合条々(案文)」の文書を国王へ手渡した。支倉は、国王謁見という第一の使命を無事に果たした。しかし、謁見の後、国王陛下からは「申合条々(和平協定)」に対して何の返事も返ってこなかった。支倉はこのような国王の態度は思いもよらなかったであろう。
1615年2月17日、支倉宿願の洗礼式が国王臨席の下、レルマ公爵が代父となってマドリードの王立跣足女子修道院付属教会において、厳かに挙行された。支倉の霊名は「フェリッペ・フランシスコ」と名付けられた。受洗式後、支倉は国王に「サンティアゴ騎士団」の騎士に任命してくれるように懇願したが、日本に住んでいては、騎士団の義務や規則を遵守することができないなどの理由で却下された。結局、使節一行は、スペイン政府との外交交渉において何の成果もあげられなかった。
使節一行、ローマ教皇に政宗の「キリシタン王」叙任の認証を請願す
使節一行は、その後マドリードからバルセロナを経由し、地中海北部を船で渡ってローマへ赴いた。ローマでは入市式やローマ教皇パウロ5世との謁見式を通して最大級の歓迎を受けた。しかし、これはあくまで儀礼的な歓迎であり、むしろローマ教皇はこれらの歓迎式典を通して、カトリック教の威光が東洋の日本にも及んでいることを、全世界に宣伝する狙いがあったのである。
支倉常長ローマ法王謁見の図 鶴岡孝夫画
使節一行はローマ教皇に対し、宣教師の派遣要請、司教の任命、スペインとの通商交易の開始に対する支援、政宗の日本における「キリシタン王」の叙任の認証、「キリスト教徒の騎士団」の創設許可などを請願したが、宣教師の派遣とソテロの司教任命以外はすべて拒否され、使節の目的を果たせなかった。
使節一行は1616年1月7日、ローマを出発し、同年4月、困窮状態でマドリード郊外に辿り着いた。スペイン政府は、使節一行のローマからの帰国を歓迎しなかったばかりか、彼らがマドリードに立ち寄らず、直ちにセビリャに向かわせ、国外追放しようとした。支倉とソテロは何とか国王からの返書をもらおうと手段を講じたが、その甲斐もなく、1617年6月13日、スペイン政府はついに支倉に強制的な国外退去を命じたのである。
文・写真
青森中央学院大学大学院教授 大泉 光一