2012年11月
素晴らしいヴァイオリニストは、演奏のみならず、その「姿」にも人を惹き込むものがある。ステージにすらりと立ち、右手に持った弓を自在にあやつりながら、左手の指は弦の上を華麗に駆けめぐる、というスタイルからして魅力的なのだが、時折、まるでなにかが降りてきて彼(彼女)の体に乗り移り、音楽を紡いでいるのではないかと思える瞬間がある。弦楽器はもともと呪術的側面が強い楽器だったそうだが、ヴァイオリンの演奏スタイルは特にシャーマン的、巫女的だという気がするのだ。
そんなイメージも手伝ってか、ヴァイオリンにおける超絶技巧はしばしば「悪魔的」と表現される。確かに、チェロやフルートやピアノでは、いかなる超絶技巧であっても「悪魔的」という比喩はあまり使われないし、似合わないのだった。
さて、ヴァイオリンの世界にも、「伝説」と呼ぶにふさわしいカリスマは多く存在する。そのなかでも「悪魔的」ということで語り継がれているのは、イタリア出身のニコロ・パガニーニ(1782-1840)だろう。その凄まじいまでの演奏テクニックは、「悪魔に魂を売って手に入れたに違いない」と噂されており、彼の演奏会に詰めかけた聴衆の中には本気で十字を切る者もいたとかいないとか……。
しかし、である。スペインだって、突き抜けた天才を数多く生んできた国!パガニーニと並び称される、伝説的ヴァイオリニストがいたことを忘れてはいけない──そう、その人の名は、パブロ・デ・サラサーテ。
彼の代表作《ツィゴイネルワイゼン》は、もはや「ヴァイオリン曲の代名詞」と言っても過言ではないほどにポピュラーである。饒舌な泣き節、徐々に高揚していくエキサイティングな曲調……即興的趣向にあふれ、耳でも目でも名人芸が楽しめる不滅の人気曲だ。しかし、「ジプシーの歌」という意味を持つこのタイトルがドイツ語であることからもわかるように、この「ジプシー」はスペインの「ヒターノ」ではない。作品の素材となっているのはハンガリーの民謡や音楽形式、ジプシー音楽であり、残念ながら、スペインとは関係がないのであった。(こんな些細なこと一つとって見ても、様々な国に生きる多様なジプシーの人々を「ロマ民族」という言葉でひとからげにしてしまうのはいささか乱暴だと思えるのは、私だけだろうか?)──ともあれ、この《ツィゴイネルワイゼン》のイメージが強烈なためか、作曲者がスペイン出身だということにはあまり目が向けられることがないように思われる。これは、サラサーテの作品がいわゆる「スペイン国民楽派」などのくくりに収まらず、国際的に広く受け入れられ名声を得ている証でもあると思えば、むしろ喜ぶべきことなのだろう。しかし、彼が書き残した作品のうち半数近くは、実はスペインに素材を求めたものだということは意外に知られていない──
パブロ・デ・サラサーテは、1844年パンプローナに生を享けた。軍楽隊の音楽家だった父はいちはやく息子の才能を見抜き、町一番の名教師のもとでヴァイオリンを習わせた。その期待に違わず「神童」となったサラサーテは、7歳のときにすでに公開演奏会を行って周囲を驚嘆させている。1855年にはスペイン女王イサベル2世の御前で演奏、彼のヴァイオリンにいたく感激した女王から奨学金を授与されることとなり、少年サラサーテは晴れてパリに留学する。若干11歳でのことだった。
パリの名門コンセルヴァトワールを優秀な成績で卒業すると、サラサーテは本格的にヴァイオリン・ヴィルトゥオーゾの道を歩み始める。その演奏活動はヨーロッパのみならず、南北アメリカ大陸にも及び、行く先々でセンセーションを巻き起こした。もしかしたら、彼の作曲家としての顔は、「ヴァイオリニスト・サラサーテ」をさらに魅力的にし、聴衆に喜んでもらうためのサービス精神の現れだったのかもしれない。
では、彼の演奏のどんなところが、人々をそんなに魅了したのだろう?
前述したパガニーニは1840年に世を去っているため、サラサーテの生きた時期とは重なっていないけれど、「ヴァイオリンの魔術師」の記憶がいまだ消え去らぬ頃のこと、「パガニーニの再来」と呼ばれ比較されただろうことは想像に難くない。事実、こんな批評が残っている。「サラサーテは、パガニーニのように情熱的で柔軟な演奏スタイルを備え、また彼のようにヴァイオリンを自由自在に扱うことにも長けているが、サラサーテの美質は、パガニーニの持つ火のような激しさよりもむしろ、繊細さにある」―― そして、その有機的な音楽性と、彼だけが持つ美しい音は、なんとも自然にヴァイオリンから引き出されたのだという。現在残されているサラサーテ本人の演奏音源はわずかで、状態も悪く、その片鱗を垣間見る(聴く)ことしかできないのだが、確かに、「タランテラ」などを聴いてみると、猛スピードで飛ばして鮮やかに演奏しているにもかかわらず、常に自然で、聴衆にストレスを感じさせない。このキャラクターを「スペイン的」とこじつけるのはあまりに安易だけれど、彼の演奏を聴衆が心地よく楽しんでいたことは間違いのないところだろう。
サラサーテの優れた演奏に、同時代の多くの作曲家たちも触発され、次々に名曲が生まれた。たとえば、サン=サーンスの《ヴァイオリン協奏曲第1番》(1859年)や《序奏とロンド・カプリチオーソ》(1863年)、ラロの《ヴァイオリン協奏曲第1番》(1874年初演)と《スペイン交響曲》(1874年/初演は1875年)、ブルッフの《ヴァイオリン協奏曲第2番》(1877年)などなど、そうそうたる作品を挙げることができる。特に、ラロの《スペイン交響曲》の成功は、フランスを中心に盛り上がった音楽界におけるスペイン・ブームの先駆けともなったのだった。
サラサーテの演奏プログラムは、古典的な作品、上記のような同時代の作品、そして自作の3本柱で成り立っていた。自作の中でも、ビゼーの歌劇《カルメン》から素材をとった《カルメン幻想曲》は、《ツィゴイネルワイゼン》と並び人気が高いが、それ以外のスペイン的な作品で知られているのは、4冊(8曲)からなる《スペイン舞曲》だろう。これは、ブラームスの《ハンガリー舞曲集》やドヴォルザークの《スラヴ舞曲集》の成功で味をしめたドイツの出版社ジムロックからの依頼で書かれたもの。単独で演奏されることも多く、軽快な足さばきが目に浮かぶような〈サパテアード〉を筆頭に、〈マラゲーニャ〉〈ハバネラ〉〈ホタ・ナバーラ〉など、ヴァイオリン特有の華麗な技巧と、スペインならではのリズムや歌謡性を融合させた作品の数々は、いわゆる「スペイン臭さ」のようなものは薄められており、誰にとっても非常にアクセシブルな曲調を持っている。
そして、世界中を股にかけて活躍したサラサーテの、故郷への愛が感じられるのが、バスクやナバーラ、パンプローナやサン・フェルミン祭を題材にした曲の数々。それらは現在、ヴァイオリニストのレパートリーからはほとんど忘れ去られている感があるけれど、このような作品も再発掘していただけると嬉しいな、と思ったりする私なのだった。(いや、人任せにせず、私がそのお役目を仰せつかりましょう!)
7月のサン・フェルミン祭の頃になると、サラサーテはいつもパンプローナに里帰りし、町の人々のためにコンサートを行った。サラサーテが定宿にしていたのは、サン・フェルミン祭の夜祭りの会場であるカスティーリョ広場に面したホテル「ラ・ペルラ」。彼はその部屋のバルコニーから、ハンカチを振って挨拶し、広場に詰めかけた聴衆に向かって演奏を繰り広げたのである。人々は毎年、その時をいかに心待ちにしていたことだろう。
ホテル「ラ・ペルラ」
サラサーテ遊歩道 Paseo de Sarasate
パンプローナの町は、彼の名を冠した「サラサーテ遊歩道」を境として旧市街と新市街に分かれている。
サラサーテは、サン・フェルミン祭とともに、「パンプローナの誇り」として今も生き続けているのだった。
下山 静香 / Shizuka Shimoyama
桐朋学園大学卒。99年、文化庁派遣芸術家在外研修員として渡西、マドリード、バルセロナほかで研鑽。NHK-BS、Eテレ、フランス国営ラジオなどに出演。海外アーティストとの共演多数。CD《ゴィエスカス》《ショパニアーナ》など10枚、共著は10冊以上を数える。翻訳書『サンティアゴ巡礼の歴史』。2015年より「下山静香とめぐるスペイン 音楽と美術の旅」ツアーシリーズを実施。桐朋学園大学、東京大学 非常勤講師。日本スペインピアノ音楽学会理事。
www.facebook.com/shizukapianista17
裸足のピアニスト・下山静香のブログ ameblo.jp/shizukamusica
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