2016年11月
ロルカがマドリードの学生寮に入った翌年の1920年秋、マドリードからグラナダにやってきたのが、作曲家マヌエル・デ・ファリャである。1922年からは、アランブラの丘に面した家に落ち着き、ここに18年にわたり住むことになる(Calle de Antequeruela Alta no.11。ここは現在、ファリャ博物館として一部が一般公開されている)。
ファリャを温かく迎え入れた人々の中に、カフェ「アラメダ」に集ってはテルトゥリアを開いていた、若い芸術家や知識人のグループがいた。当時のグラナダでは文芸活動が盛んで、アンダルシア・ルネサンスを興そうという気風に満ちており、ロルカもそのグループのメンバーだった。ロルカは、しばしばファリャ宅を訪れ、ときには連れだってアンダルシアの村々へ民謡を探す旅をするほど深い親交を結ぶようになる。
ファリャは、“フラメンコの揺りかご”的な地でもあるカディスの出身で、フラメンコの独創性、芸術性を認識し、その本質をみずからの作品のなかに“再生”させた稀有な作曲家である。当然ながら、フラメンコの「核」であるカンテ・ホンドの理解者だった彼は、流行歌まがいのカンテがもてはやされ、民衆の魂から生まれる本来のカンテ・ホンドが廃れかけている状況を憂えていた。そして何人かの識者とともに、埋もれている宝の発掘、真のカンテの復興を目的としたコンクールを企画したのだった。
前号で述べたように、少年時代からフラメンコの世界にも親しく接していたロルカは、敬愛するファリャが首唱した大イベントの実現のために協力を惜しまず、執筆や講演で援護射撃を行った。ちなみに、ロルカの名高い『カンテ・ホンドの詩 Poema del cante jondo』は、この頃に書かれている(出版は1931年)。
1922年2月19日、ロルカは、ファリャの勧めもあって、グラナダ芸術センターで『カンテ・ホンドの歴史的重要性』と題した講演を行っている。カンテ・ホンドの音楽面については、同じく芸術センターを通じて匿名で発表されることになるファリャの説を引用する形で話をしているが、ロルカは詩人としての視点から、カンテ・ホンドの驚異をその「詞」に見出して語っている。たとえばシギリージャに脈打つ苦しみ、嘆きは、スペイン全土でも匹敵するものがみつけられないと説き、聴衆に、「皆さん、この素晴らしい宝石を死なせないでください」と訴えた。
コンクール開催については反対派もいたものの、幸い、グラナダ市が助成金を予算に計上してくれ、実現へとこぎつけた。ファリャは、演奏や作曲の仕事も休んで、このコンクールに打ち込んだ。
6月7日、ファリャの家にもほど近いオテル・アランブラ・パラス(アルハンブラ・パレス・ホテル)で行われた、コンクールの前夜祭的な内輪の催しでは、ロルカが『カンテ・ホンドの詩』からいくつかを朗誦し、クラシックギタリストのアンドレス・セゴビアがフラメンコを奏でるというサプライズもあった。コンクール本番の審査員や名誉招待者には、アントニオ・チャコン、マヌエル・トーレ、ニーニャ・デ・ロス・ペイネス、ラモン・モントーヤ…と大物たち(もちろん、セゴビアも)が顔をそろえ、フラメンコ界初の試みは大盛況で幕を閉じた。
語り草となるイベントではあったのだが、ファリャが望んだ「真のカンテの復興」に関しては、必ずしも大きな成果を得たとはいえなかった。参加資格をアマチュアに限ったこともあり、賞を分かち合ったわずか数人を除いて、参加者全体の質は低いものに終わってしまったからである。しかしともあれ、知識人たちにカンテの価値を認識させるという役目は果たしたこと、また、入賞者のなかに、のちに世紀の名カンタオール“エル・カラコル”として活躍することになる、12歳のマヌエル・オルテガ少年がいたことを考えれば、このコンクールの開催意義は十分にあったといえるのではないだろうか。
ロルカとファリャは、人形劇への愛着という点でも共通するものがあった。1923年1月6日(三賢王の日)、家族や友人たちが集ったロルカの家で、ロルカ作《バジルに水をやる少女と質問好きの王子》(アンダルシアに伝わる昔話に基づく)が人形劇で初披露された。ファリャは、様々なスタイルの音楽を選んで伴奏づけを担当し、ドビュッシーの《人形のセレナーデ》、アルベニスの《ラ・ベガ》などをピアノで演奏した。ほかにも、ヴァイオリンとピアノでラヴェルの《フォーレの名によるベルスーズ(子守歌)》や、チェンバロ、クラリネット、ヴァイオリン、リュートという編成で《エスパニョレタ》(17世紀、作者不詳)が演奏された。ただし、この「チェンバロ」はいわゆるプリペアド・ピアノで、ピアノの弦に仕掛けを施してチェンバロ的な音を出したのだった。
この日はさらに、セルバンテス作とされている《2人のおしゃべり男》のために、ストラヴィンスキーの《兵士の物語》から数曲が三重奏バージョンで演奏されている(これがスペイン初演だった、とはロルカの弁である)。他にも、1月6日にふさわしく、中世の神秘劇《三賢王のミステリオ》への音楽として、13世紀にアルフォンソ10世が編纂した聖母マリア頌歌集からのカンティガなどが演奏された。この日居合わせた人々は、なんと贅沢で豊かな時間を過ごしたことだろう。
同じ時期(1922年から24年にかけて)、ロルカとファリャは、子供向けの人形オペラ《女優ロラ Lola la comedianta》の企画を練っていた。しかし、結局実現することはなく、ロルカの死後20年が経ってファリャの遺品のなかから資料が偶然発見されたことで、“幻のコラボレーション”の存在が初めて明らかになったのだった。そこにはスコアこそなかったものの、ファリャの覚書やスケッチが書き込まれていた。もしも計画通り形になっていたら…スペインの民俗的な音楽素材がファリャによって魅力的かつ独創的に生かされた、ロルカの代表作のひとつになっていたかもしれない、と惜しまれる。
この後、ロルカとファリャの関係はどうなっていったのか?—— それはまた、次回に語ることにしよう。
ファリャが住んだグラナダの家(現・マヌエル・デ・ファリャ博物館)
下山 静香 / Shizuka Shimoyama
桐朋学園大学卒。99年、文化庁派遣芸術家在外研修員として渡西、マドリード、バルセロナほかで研鑽。NHK-BS、Eテレ、フランス国営ラジオなどに出演。海外アーティストとの共演多数。CD《ゴィエスカス》《ショパニアーナ》など10枚、共著は10冊以上を数える。翻訳書『サンティアゴ巡礼の歴史』。2015年より「下山静香とめぐるスペイン 音楽と美術の旅」ツアーシリーズを実施。桐朋学園大学、東京大学 非常勤講師。日本スペインピアノ音楽学会理事。
www.facebook.com/shizukapianista17
裸足のピアニスト・下山静香のブログ ameblo.jp/shizukamusica
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