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チンチョン伯爵夫人(その1)


桑原真夫

 La condesa de Chinchón
1800. Óleo sobre lienzo sin forrar, 216 x 144 c
GOYA Y LUCIENTES, FRANCISCO DE

©Museo Nacional del Prado

 プラド美術館本館のSALA37の部屋には、一枚の大きな絵画が展示されている。数奇な運命を辿ったこの絵はこの場所に移動して(多分、最後の場所となるであろうが)まだ10年ほどしか経っていない。この絵に描かれた女性の名前は「チンチョン伯爵夫人(女伯爵)」と言う。わざわざ女伯爵と入れたのは、彼女が伯爵と結婚して伯爵夫人となったのではなく、伯爵は彼女自身への爵位であったからである。これから、ゴヤの肖像画の最高傑作といわれるこの絵について何回かに分けて連載を進めることにする。

 堀田善衛の大著『ゴヤ』の第二巻にはこの≪チンチョン伯爵夫人像≫について詳しく述べられている。ゴヤはチンチョン伯爵夫人(正式名称は、María Teresa de Borbón y Vallabriga)を生涯に二度描いている。しかも17年の時を経て。チンチョン伯爵夫人の祖父はフェリーペ5世であり、(二度目の妻との間の)長男がカルロス3世として王位に就く。チンチョン伯爵夫人の父親はカルロス3世の弟(3男)ドン・ルイスである。次に、カルロス3世のあとを継ぐのが次男(長男は身体的に不適格者であったため)のカルロス4世である(ゴヤの描いた≪カルロス4世の家族≫で有名)。従って、チンチョン伯爵夫人は国王カルロス4世とは、父親同士が兄弟の従兄妹の関係であった。

 チンチョン伯爵夫人は、1780年11月26日トレドで生まれた。父親ドン・ルイスはスペインの王にはなれなかったが、親王として贅沢三昧の一生を送った。後年49歳でナバーラ出身の貴族マリア・テレサと結婚し、マドリッドの西方135キロにあるアナーレス・デ・サン・ペドロという山間の町の離宮に家族とともに隠棲した。そして1783年の夏にゴヤがこの離宮に呼ばれ、いくつかのドン・ルイス家族の肖像画を残した(ドン・ルイスはこの2年後に逝去)。

 ドン・ルイスには三人の子供がおり、ゴヤは幼い長男と長女のそれぞれの肖像画を描いている。長男のルイス・マリアは後に枢機卿兼トレド大司教というスペイン宗教界に君臨する最高職位に就くことになる。一方、長女のマリア・テレサ(母親と同じ名前)はこのときわずか3歳、ゴヤが再び彼女を描くのは17年後の1800年、彼女がチンチョン伯爵の爵位を与えられたときである。この爵位は彼女一代限りのもので、彼女は別に「スエーカ公爵夫人」という爵位も持っていたので、後裔はスエーカ公爵の爵位を継いでゆく。堀田善衛は書く:「私はマドリードの現スエーカ公爵夫人の好意で二度この薄幸な夫人の像の前に立つことが出来た。この最高傑作は、いままでの如何なる規模のゴヤ展覧会にも出品されたことがない。・・・夫人はゴドイの子(娘)を宿している。・・・緑と青との羽毛の髪飾りと紗のリボンをつけた金髪が額を蔽っていて、その下の眼の物語る、えもいわれぬ複雑かつ微妙なものは、それ自体でゴヤがこの20歳の姫に寄せた感情そのものであろう。・・・17年前の、あの無垢なマリア・テレサのことをゴヤがこれを描きながら思い出さぬ筈はなかった。・・・それにしてもこの、悲劇的、と言ってよいほどのところまで高まっている、清楚、清麗……。ゴヤの憐れみと同情は大画面に満ちて画外へ溢れて出て来る。額縁などもいらぬくらいのものである。」

 私が、この≪チンチョン伯爵夫人像≫を初めて観たのは、マドリッド駐在中プラド美術館別館で開催された「ゴヤ特別展」であった。それまでどこにも展示されたことのない≪チンチョン伯爵夫人像≫が今回は終にスエーカ公爵家の計らいで展示されることになったと、新聞でも大きく報道されていた。

 私は、展示期間中毎日のようにこの絵の前に立った。仕事の合間を縫っては、本館の向かいにあるプラド美術館別館を訪れた。入口正面にその絵は設置されていた。ほの暗い館内でその絵にだけに、一条の光が射していた。巨大な画布(216x144cm)に浮き上がる彼女の姿は、堀田善衛が書いてある通りであった。椅子に座して1点に目をやる若い姫の彼女自身の人生が凝縮している。背景は闇の中である。その絵の前で誰もが居住まいを正さざるを得ない、そういった厳粛さに包まれた絵であった。

 ところで「チンチョン」とは、マドリッドから南へ46キロ離れたカスティーリャの古い町である。アランフエス宮殿の観光の帰り道に何度も立ち寄ったが、上品で物静かな街であった。勿論、チンチョン伯爵夫人とは直接関係はない。

 再びチンチョン伯爵夫人マリア・テレサに戻る。マリア・テレサの父親ルイス・アントニオ親王(ドン・ルイス)はスペイン王フェリーペ5世の2番目の妻との間の3男としてマドリッドで生まれた。幼少から聖職者となるように育てられた。8歳で金羊毛騎士団員、トレド大司教、ローマのサンタ・マリア・デッラ・スカラの枢機卿となった。その後還俗して王位承に野心をみせたため、国王となった兄のカルロス3世に疎まれることとなった。このため親王はマドリッドから遥かに遠方の田舎に隠棲することになったのである。また、49歳で結婚した相手のアラゴンの貴族マリア・テレサ・デ・バリャブリガ・イ・ロサスは王侯出身ではないため、この結婚は貴賎結婚と見なされ子供たちは庶子扱いを受けることになった。

 カルロス4世の王妃マリア・ルイサ・デ・パルマは男妾であったゴドイ宰相に箔をつけてやるため、然るべき血筋の結婚相手を探していた。候補にあがったのが18歳になったばかりのブルボンの血筋をひくマリア・テレサであった。先王から冷遇されていた親王ドン・ルイスの長女である。これほどの血統はざらにいるものではない。マリア・テレサの家系救済(既に両親ともに没して久しい)の恩を売るためにも、愛人ゴドイをブルボン家の一員にするためにも、一石二鳥の政略結婚であった。このときゴドイには公然の妾、ペピータ・トゥドーがいた。

(つづく)



桑原 真夫 / Masao Kuwabara

詩人・エッセイスト

広島県鞆の浦出身、北大卒。1977年よりほぼ毎年スペインを訪問。1984年から1989年まで銀行員としてマドリッドに駐在。ヨーロッパ在住約14年。スペイン関連著書多数。最新刊に『ロサリアの秘密の生涯』(ルース・ポソ・ガルサ詩集:土曜美術社出版販売)。『ジャック・ブレルという詩人』及び『フランソワーズ(遠藤周作のパリの許婚)』を出版予定。

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