2010年05月
FCバルセロナのホームスタジアム“カンプ・ノウ”には、現在スペイン国内のみならず世界中のフットボールファンから熱い視線が注がれている。完成したのは今から半世紀以上前の1957年9月である。誕生のきっかけは1951年のラディスラオ・クバーラの入団であった。ハンガリーの名手で当時の国際的スター選手であったクバーラの華麗なプレーはラス・コルツ(当時のスタジアム)に溢れんばかりの観客を集め、もはやラス・コルツの6万人のキャパシティーでは手狭になっており、にわかに新スタジアム建設の必要性が叫ばれるようになった。約4年の歳月と膨大な費用をかけて新スタジアム“カンプ・ノウ”(*1)が建設された。当時は強硬な中央集権政策を推し進めるフランコ独裁体制のもと、カタルーニャの自治権が剥奪されカタルーニャ語の公式使用も禁止されていた。政治機関だけでなくカタルーニャ人の文化的要素全てに圧力がかかり、カタルーニャ人のアイデンティティまでも迫害されようとしていた。そのような状況の中でスタジアムが数少ない避難所となっていた。約10万人というキャパシティーが大きな要因となり、大規模なカタルーニャ民族の暴動を恐れた中央政府は、スタジアムの中でのカタルーニャ語の使用を積極的ではないにせよ黙認していた。当然のごとくカタルーニャ語でバルサを応援し、カタルーニャ語でフランコ政権の象徴レアル・マドリーを罵ったのである。バルサがマドリーを倒すことで、カタルーニャ人としての誇りを感じていたバルセロニスタも多かった。バルサ人気は民主化や自由への希望そのものであった。しかし期待に反してフランコの独裁政治は非合法的な形でフットボールの世界にも影を落とし、マドリーの栄光の傍らバルサはその後塵を拝し続けた。
1973年の夏、カタルーニャに転機が訪れる。当時の世界的なスター選手で現在もカリスマ的人気を誇るヨハン・クライフがバルサに入団したのである。クライフのマジカルでエレガントなプレーは、スタジアムに溢れんばかりの観客を呼び寄せた。カンプ・ノウでアトレティコ(*2)相手にカンフーキックで決めた伝説のゴールによりクライフは「フライング・ダッチマン(空飛ぶオランダ人)」の称号を得た。そして1974年2月17日、クライフ率いるバルサは伝説を作る。フランコのおひざ元であるレアル・マドリーのホームスタジアム「サンティアゴ・ベルナベウ」で0対5という歴史的な大勝利を挙げたのである。このシーズン、バルサは14年ぶりにリーグ優勝を果たす。「ここでリーグ優勝した時一番感動したのはどんな出来事だったと思う? “おめでとう” じゃなくて “ありがとう” といわれたことだよ。胸にずしんときたね。生涯忘れられない思い出だ。誰も彼も、どこへ行っても“ありがとう”。つまりバルセロナの勝利はここで暮らす人々みんなのものなのだ」。この時のことを回想して後にヨハン・クライフが語った言葉である。
その後1975年にフランコ政権が崩壊して以降は民主化されるスペインの1つの象徴としてバルサ人気もさらに高まり、スタジアムに溢れんばかりの観衆を集めた。しかし1978年にヨハン・クライフが退団して以降はフットボールの魅力には欠けており、お世辞にも「美しい」と言えるようなものではなかった。確かにアラン・シモンセンやディエゴ・マラドーナ、ベルント・シュスター、ゲーリー・リネカー等、クラック(名手)と呼ばれる世界的なスター選手が加入し時折、注目を集めることはあったが、やっているフットボールはひどく凡庸で「冴えない1ローカルチーム」に過ぎなかった。しかし1988年にクライフがバルサの監督として10年ぶりに帰還すると状況が一変する。クライフが作り上げたチームは、無謀ともいえる攻撃への傾倒、流れるようなパスワーク、スペクタクルなゴールという魅力的なスタイルを確立した。クライフ関連の著書に「美しく勝て」という書があるが、リーガ・エスパニョーラ4連覇や初の欧州チャンピオンに輝くなど、クライフ・バルサは数々のタイトルを獲得した。リーガ4連覇に至っては、内3回は最終節での逆転優勝という劇的なものであり、「ドリームチーム」として伝説に残っているのもスペクタクルでドラマチックな試合を何度も演じたからに他ならない。しかしながら世界のトップに君臨し続けてきたクライフが何故、冴えないローカルチームに過ぎなかったバルサの監督に就任したのか疑問に感じるが、彼と同年代のスーパースターで同時期(70年代)にスペインの某クラブチームでプレーしていたギュンター・ネッツァーがスペインのファンの情熱について印象的な言葉を残している。「私はこのクラブよりはるかにレベルの高いクラブでプレーしたことがあるが、これほどまでに情熱的な人たちに囲まれてプレーしたことはない」(*3)。レベル的には決して高くもなく、魅力にも乏しかったが、しかしバルセロナのファンの存在が当時26歳(70年代に選手としてバルサでプレーしていた時期)のクライフに強烈な印象を与え、再び監督としての帰還を決意させ、その神秘的なマッチングが今日の美しく魅力的なバルサにつながっているのではないかと考えられる。余談だが70年代当時、ファンの情熱に胸を打たれたクライフは公にはカタルーニャ語が禁止されていたにもかかわらず、息子にジョルディー(*4)と名付けている。クライフとカタルーニャの深い絆がうかがえる史実である。
クライフがバルサの指揮を執るのと時を同じくして当時11歳のチャビ・エルナンデスがバルサのカンテーラ(下部組織)に入団している。クライフイズムはこうして、次世代に受け継がれていく。そしていつしかカタルーニャの人々もバルサに対して美しいフットボールを求めるようになり、ただ勝つだけでなく「美しく勝つ」ことを求めるようになった。もともとガウディやダリ、ミロといった芸術家を多数輩出し、幻想的なたたずまいの街並みに影響され、カタルーニャ人は「美の審美家」のような民族であり、それがフットボールにも昇華され、美しさを求めるようになったと考えられる。カンプ・ノウのファンのフットボールを見る「目」は肥えており、ゴールに関係ないところであっても良いプレーであれば拍手喝采が起き、悪いプレーには容赦のないブーイングが浴びせられる。そうしたスタジアムの雰囲気が選手を成長させ一流にするのである。そうした極上のステージでプレーしたいと思う選手は世界中に数知れない。
バルサと並んで優れた育成システムを有するビッグクラブは世界中に多数あるが、トップチームのスターティング・メンバーに常時7〜8人のカンテラーノ(下部組織出身者)が名を連ねるのはバルサくらいであり、他のクラブに至ってはせいぜい2〜3人である。この違いは何か、答はスタジアムである。世界でも最大級かつ最上級のスタジアムをホームにするという夢は、選手にとって最大の魅力である。その魅力が世界中からダイヤモンドの原石と呼ばれる若き傑出した才能を集めるのである。バルサのカンテーラに所属する選手は勿論、地元のカタルーニャ人も多いのだが、幼少期にアルゼンチンからやってきて今やバルサの背番号「10」を背負うレオ・メッシや、アルバセーテからやってきたイニエスタ、その他にもベネズエラ出身のダビ・サルスマン、イスラエルのガイ・アスリン、ブラジルのティアゴ・アルカンタラ、メキシコのジョナタン・ドスサントスなど、世界最高の育成システムのもと世界最高クラスの才能とポテンシャルを持った若者たちが切磋琢磨している。バルサのカンテーラの施設の中に「マジーア」という選手寮があるが、「マジーア」とはカタルーニャ語で農家という意味で、もともと農家の家屋として使われていた建物をクラブが買い取り、選手寮として使うようになり、寮そのものが「マジーア」と呼ばれている。この「マジーア」はスタジアムから徒歩5分のところに隣接しており、建物の窓から、カンプ・ノウを臨み、通学や練習場への移動時にスタジアムを目に焼き付けて選手たちは日々努力しているのである。勉強とフットボール以外の私物の持ち込みは一切禁止され、若くて多感な時期の若者たちに同情してしまうが、そういったストイックな環境こそが人間的にも一流の選手を育成し、そして一流のスタイルを継承していくのである。バルサが現在のスタイルを確立するまで約20年の歳月をかけており、その間は紆余曲折もあったが、現在、間違いなく世界のフットボールの中心はここカンプ・ノウにあり、彼らの勢いは増すばかりである。クライフが「アヤックス(*5)とはサグラダ・ファミリアのようなもの、どちらも1日でできたわけではない」、「選手はお金で買えてもステムは買えない」という名言を残しているが、バルサとカンプ・ノウのここ20年の歩みを見ると、この言葉の重みが少なからず理解できる。
*1 「カンプ・ノウ」とはカタルーニャ語で新しいスタジアムという意味。
*2 アトレティコ・デ・マドリーの略
*3 フリーツ・バーラント (著), ヘンク・ファンドープ (著), 金子 達仁 (翻訳) 『ヨハン・クライフ 美しく勝利せよ』 二見書房 1999年 p.175
*4 カタルーニャの守護聖人の名で最もポピュラーな名前の1つ。
*5 クライフが所属していたオランダの名門クラブで、70年代に現代フットボールの基礎を築いた。