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acueducto 10 特集「スペイン絵画の巨匠 EL GRECO」

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エル・グレコとスペイン


尾崎恵子

《芸術家の自画像》 1595年頃 メトロポリタン美術館、ニューヨーク
©The Metropolitan Museum of Art, Purchase, Joseph
Pulitzer Bequest, 1924(24.197.1

 

 美術を語る際、スペイン人は誇らかに自国の画家の名を挙げる。ベラスケス、ゴヤ、ダリ、ピカソ…確かに芸術大国としてその名を馳せる隣国フランスに負けず劣らず、スペイン美術史には著名な画家たちが名を連ねている。しかし、そこにエル・グレコの名前が出ると、スペイン人は決まって少し眉をひそめる。中には臆面も無く「彼は頭が狂っているから、あんなおかしな絵を描くんだろう?」と口にする者もいる。16世紀から17世紀にかけて、スペイン黄金時代と呼ばれた文化の円熟期の中で、ゴヤ、ベラスケスと並んで評価されているはずのエル・グレコはしかし、実際には一人だけ異質な存在として扱われているのだ。

 それは単に、エル・グレコがギリシャ人であったからというだけでなく、彼の作品が他の同時代の画家と一線を画していることが、誰の目から見ても明らかだからであろう。ルネッサンスからマニエリズム、そしてバロック様式へと移行を見せる時流の中で、いち早くその変化を作品に反映させ、そして他の追随を許す事がなかったエル・グレコは、30年以上に及ぶスペインでの画業の中で、彼の作風を突出したものへと昇華させたのである。

 長くのびた人体が、微妙な曲線を描きながら空を仰ぐ様は、非常にきわどい所で美しいバランスを保っている。その人体表現は、情熱の赴くままに筆を走らせたように見えながら、その実、綿密に計算されている。彼の作品への態度は、生前のエル・グレコと対話した画家、フランシスコ・パチェーコをして、偉大な哲学者と言わしめるほどであった。

 彼の死後、息子のホルヘ・マヌエルや弟子のルイス・トリスタンが、エル・グレコの様式をまねようと試みた作品が数点現存するが、そのどれもが、エル・グレコの繊細な人体を表現する事が出来ずに終わっている。その結果、エル・グレコはスペイン美術史の中でも、唯一無二の存在となったのである。

 後継者となる画家がおらず、時代の中で孤立したエル・グレコの作品は、彼の死後、スペインの画家であり著述家でもあったアントニオ・パロミーノによって、自著の中で「ばらばらなデッサンと味気ない色彩による、蔑むべきばかげた絵」と評価されることとなった。そして実際に、フェリペ2世によって注文された、彼の《聖マウリティウスの殉教》が王から拒絶された事や、トレドでの、教会との度重なる訴訟問題と合わせ、エル・グレコを「おかしな絵を描くおかしな画家」とする解釈が一般に流布するようになったのである。

 しかし、生前、エル・グレコがトレドで大きな成功を収めていた事はまぎれも無い事実である。また、現在では、フェリペ2世はエル・グレコを評価していたものの、彼の作品が当時のフェリペ2世の思惑、つまり「トレント公会議に基づく、カトリック国家としてのスペインの再建」と合致しなかったために、彼の作品を公の場に飾らなかっただけで、決して彼の作品自体を否定した訳ではないと解釈されている。当時のスペインの絵画はカトリックの制約を強く受け、画家は教会の監督のもと、細心の注意を払って作品を仕上げなければいけなかった。その中で、図像的には教会を納得させる「正しさ」を貫きながら、上昇するような大気、鮮やかな明暗、そして大胆なデフォルメによる人体表現で、その独自性をまざまざと見せつける エル・グレコの作品は、今日においても観る者に、よくも悪くも強烈な印象を残さずにはいられないのだ。

 

「フェリペ2世の栄光」 1579-1582年 エル・エスコリアル修道院、スペイン
©PATRIMONIO NACIONAL, Real Monasterio de San Lorenzo de El Escorial

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