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ハポンさん 望郷の想い
永峯清成

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支倉常長の像とハポンさんたち
東日本大震災のときは、左の少年が着ているTシャツを売って寄付を集めた

 

 セビリャの南、コリア・デル・リオのことについては、読者はすでにとくとご承知のことと思われ、これ以上説明する必要もない。そこでここでは、日本側からではなく、彼らハポンさん側の一人の人物について述べてみたい。

 1998年に、私は初めてそこを訪れた。600人のハポンさんを代表する、カルバハル・ハポン氏に会うためだった。彼の説明によると、1992年に、支倉常長の出身地の仙台から、彼の銅像が贈られてきた。そしてそれを機に仙台と交流が始まり、彼もそこを訪れ、支倉家のお墓にもお参りをした。彼はその時に見た日本の田園風景の美しさに憧れ、できればそこに住んでみたいと強く思ったという。

 その後私は、セビリャへ行くたびに彼にあった。独身で、おまけに私設の博物館を自宅に造ったりする変り者だった。ところが私は、その頃から、彼がこの地のハポンさんをどれだけ掌握しているか、またハポンさん自身も、どれだけ自分たちのことを自覚しているかということに、いささか疑いの気持ちをもち始めたのである。

 あるとき彼は、ハポンさんが多く集っているバルに、私を連れていってくれた。そこにはざっと、10人ほどのハポンさんがいた。彼らはまぎれもなく、日本人だった。体型と顔が、周りのスペイン人よりも低く、小さい。それはまさに、数十年前の日本人の姿だった。

 そもそもハポンさんの成り立ちについては、ここではそれを証明する資料は何もない。しかし現に私が見た彼らの相貌こそが、間違いなくハポンさんなのだ。ところが、彼らは、日本人ほどには歴史好きでもなく、自分たちの先祖の出自についても興味が殆どなく、私にとっては期待外れであった。

 2005年に、カルバハル氏は急死した。69歳だった。彼は最後まで、日本の田園風景に憧れていた。それはせつない望郷の想いだった。しかしその夢は、ついにかなえられなかったのだ。記念のこの年に、どんな行事があるのか。ただ私は、日本側から押しかけて行くだけではなく、双方からの行き来がもっとあればと願っている。それがカルバハル氏の、望郷の想いを果たすことにもなると思うのである。

 

町の文化センター内にある、故ビルヒニオ・カルバハル・ハポンさんを記念してつくられた慶長使節団関連の展示室

ハポンさんたち
コリア・デル・リオには、ハポン姓を持つ人が650人以上存在する



篠田 有史 / Yuji Shinoda

1954年岐阜県生まれ。フォトジャーナリスト。24歳の時の1年間世界一周の旅で、アンダルシアの小さな町Lojaと出会い、以後、ほぼ毎年通う。その他、スペイン語圏を中心に、庶民の生活を撮り続けている。【写真展】冨士フォトサロンにて『スペインの小さな町で』、『遠い微笑・ニカラグア』など。【本】「ドン・キホーテの世界をゆく」(論創社)「コロンブスの夢」(新潮社)、「雇用なしで生きる」(岩波書店)などの写真を担当。

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