特集

ESPECIAL

             


闘牛はどこから来たか ¿De Dónde vienen las corridas?
宮田渚

PDF記事

PDF掲載誌

コリーダはいつからスペインの伝統文化となったのか?

 

ゴヤが描いた徒歩闘牛の立役者ペドロ・ロメロ(フランシスコ・ロメロの孫)

 

1.雄牛信仰:男性性の象徴としての雄牛

  地中海周辺地域では旧石器時代から古代ローマ時代にかけて、牛が主題の絵画や彫刻が絶えず生産されていた。イベリア半島でも1万数千年前のアルタミラ洞窟壁画に描かれたバイソンのほか、各地で牛を形どった石像や石版画が発掘されている。古代人は特に逞しい雄牛を男性性の象徴として捉え、この動物に接触することにより生殖力や豊穣の力を得ようとしたようだ。スペインの地方の村々にも、牛にまつわる伝承や儀式の記録が残っている。たとえば少女が一角牛の魔力で男子になる「ウリケルノ伝説」や、​牛は不妊に対抗する生殖の力を持つとされる「黄金の牛」といった伝承、またエストレマドゥーラでは、婚礼の場において​花婿と仲間が闘牛(銛で刺したり、上着などの布で注意を惹きつけたり)をしながら花嫁のところまで走るという風習が20世紀初めまで残っていたという。こうした各地の雄牛信仰や風習が現在のコリーダに直接的に結びついたというわけではないが、パンプローナの牛追い祭に代表されるように民間闘牛が盛んに行われており、イベリア半島が古くから雄牛を祝祭の動物として特別視する土壌であったことは確かだ。

 

アビラにある石像トロス・デ・ギサンド。紀元前3〜4世紀のものとされる

 

2.王侯貴族たちの騎馬闘牛から庶民の徒歩闘牛へ

 見世物としての歴史を紐解くと、はじめに闘牛を公の競技としたのは中世イベリアの貴族たちだった。馬上から牡牛を槍で突く騎馬闘牛が盛んに行われ、17世紀にその人気が頂点に達する。庶民は町の一番大きな広場に押しかけ、地主たちの活躍を観戦することができた。ここでの闘牛は富と権力の誇示という側面もあり、主役の貴族たちは大勢の召使いたちを引き連れて入場していたという。ハプスブルク王朝の歴代国王は闘牛を愛し、特に帝国最盛期のカルロス1世(神聖ローマ帝国カール5世)は自らが闘牛を披露することもあった。現在も通常のコリーダとは様式の異なる騎馬闘牛(corrida de rejones)が催行されるが、これはこの時代の闘牛の名残である。

 転換期が訪れたのは18世紀初頭。騎馬闘牛の最中に、馬に乗らない徒歩闘牛士が登場した。フランシスコ・ロメロという大工の男が、貴族が落馬したのを見て帽子で牛の視界を妨げ、彼を助けたのである。ここから、赤布を用いた徒歩闘牛の歴史が始まった。彼らは牛に接近して命知らずの技を見せることで、観衆の注意を惹きつける。やがて騎馬闘牛の人気が下火になるにつれ、祝祭の主導権は貴族から庶民出身の徒歩闘牛士たちの手に渡っていく。

 

3.「フランスかぶれ」vs「マホ」

 騎馬闘牛衰退の理由のひとつは、18世紀初めにスペインがフランスをルーツとするブルボン王朝の統治下に入ったことだった。この王朝はハプスブルクとは異なり闘牛を嫌厭し、スペイン土着の文化を嫌い、イベリア半島へのフランス文化の浸透を推し進めた。18世紀中期、貴族の子息たちはフランス、あるいは他の啓蒙思想国家のサロンで過ごすようになり、宮廷ではなんでもシャレたフランス流が良いと考える afrancesado(フランスかぶれ)たちが台頭した。

 これに反発したのが庶民たちである。古くからマドリードの下町に住む人々は「majo」「maja」(マホ、マハ / 粋な者たち)と呼ばれるが、彼らの下町流儀こそが真のスペイン精神を象徴するものだとする「majismo マヒスモ」が庶民たちの間で爆発した。そして貴族から庶民の手へと渡った闘牛は、まさにこのマホたちの文化を象徴するものとして強く後押しされたのである。庶民の牽引者としてのマタドール像が形成され、彼らが着る「光の衣装」の原型が生まれたが、この衣装もフランス流への反発として開発された。現在、18世紀当時の衣装を着て闘牛するのを「corrida goyescaゴヤ時代風装束闘牛」というが、これはゴヤの絵画に描かれているような派手なマホ風装束の闘牛であり、この時代に闘牛が庶民の文化として根付いたことを物語っている。

 

アルルのcorrida goyescaの時に立てられた《裸のマハ》のパネル。ゴヤは多くのマホ、マハの風俗画を描いている
ⒸJacques Rouquette

 

4.19世紀以降の熱狂、 そして現在へ 

 庶民文化となった徒歩闘牛はスペイン全土に広まり、各地の闘牛場が整備され現在の見世物としての様式が確立していく。庶民たちの熱狂ぶりは凄まじく、闘牛場になだれ込み、チケットがなくても壁をよじ登ってなんとか観戦しようとし、時には砂場に飛び込んで即興闘牛を演じることさえあった。ブラスコ・イバニェスの小説『血と砂』(1908)には熱狂的にマタドールを追いかけ回す市民の姿が良く描かれている。コリーダはマドリードのほかアンダルシアを中心に催行され、闘牛士たちもこの地域出身の者が多い。貧しい出自であることの多かった彼らは富と名声を求めて、その時代に国民的英雄として持て囃された闘牛士になろうとしたのである。20世紀前半にはホセリート、ベルモンテ、ドミンギン、マノレーテら今も名を残す天才闘牛士らが活躍し、審美性を意識した華麗な布技が幾多も発明された。文豪ヘミングウェイや巨匠ピカソ、ダリなどが彼らの闘牛をテーマとする作品群を残している。そして現在のコリーダ界でも、ホセ・トマスやエル・フリ、セバスティアン・カスティーリャらが業績を残し、活躍しているが、闘牛興行全体には陰りも見え始めている。現実の舞台で顕現する死は、実際のところ、非常にショッキングな体験なのだ。スペイン人でも闘牛に拒絶反応を示す者が珍しくなく、カタルーニャ州では2012年に闘牛が廃止された。1世紀前は、危険を顧みず死に迫る闘牛士は国の英雄だったが、今、そうした時代は終焉を迎えつつあるのかもしれない。しかしながら、こうしてスペインの長い歴史のなかで培われた闘牛士像は、コリーダそのものが廃止されても消えることはないだろう。この分野にはまだ多くの考察の余地が残されている。

 

ニーム(フランス)の円形闘技場。古代ローマ時代に建てられた
ⒸJacques Rouquette

VOLVER

PAGE TOP