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『バスク地方の歴史』


川成洋

『バスク地方の歴史』
マヌエル・モンテロ 著
萩尾 生 訳

明石書店
■2018年2月刊
■定価4200円+税

 711年にアフリカからイスラム勢力が侵攻し、瞬く間にイベリア半島全域を席巻したが、北のバスク地方とその西側一帯は制圧されず、この地に緊急避難したカトリック勢力が戦列を編成した。ゆえにこの地は「国土回復戦争(レコンキスタ)」の発祥地、すなわちスペイン・カトリックの復活の拠点となった。換言すれば、敬虔なカトリック信仰揺籃の地である。
こうしたカトリシズムとバスク・ナショナリズムが個々に屹立し、不幸にも相剋する関係で現出したのが、スペイン内戦である。バスク地方はカトリックを指導理念の1つにしつつ、民族自決を容認しないフランコ叛乱軍側につくか、その真逆の、反教権主義の下でカトリシズムとの敵対関係を鮮明にしつつ、バスクの自治を容認する共和国政府側につくか、この二律背反の選択を迫られたのだった。

 バスクは人民戦線政府を選択する。1936年10月1日、共和国政府はバスク自治憲章を公布。7日、ホセ・アントニオ・アギーレを首班とするバスク自治政府が成立する。

 バスク政府は、独自の軍隊、独自の貨幣の鋳造・発行などの施策を通して、自治体制の強化を図った。叛乱軍のマドリード包囲作戦が進捗せずに戦線は膠着状態になり、軍の攻撃目標は北部戦線に移された。1937年4月26日のゲルニカの無差別攻撃を典型例とするバスク攻撃である。6月19日、バスク政府の首都ビルボ(スペイン語でビルバオ)が陥落する。バスク政府は、カタルーニャ自治政府の所在地バルセロナに移る。この4日後、フランコはビスカイアとギプスコアの2県に「反逆」の責任を記す法令を公布し、両県の経済協約を破棄した。
1939年4月1日、フランコの内戦終結と勝利宣言。バスク政府は亡命政府としてパリに移る。バスクから脱出できなかったバスク地方の人々に対するフランコ陣営の弾圧は執拗だった。まず、彼らの独自の言語であるバスク語の禁止、さらにバスク人の民族的な習慣や伝統の禁止など、「スペインは1つ」をスペイン全土に強制したのだった。

 1959年、バスク・ナショナリズムの果敢な行動主義を主眼とするETA(バスク祖国と自由)が創設される。当初はバスク民族の文化復興を目指す若者の団体だったが、やがてバスク民族の自治権行使による独立を求める労働者と連帯し、フランコ陣営との死闘が続くことになる。70年12月、ETAの指導者たちはブルゴス軍事裁判で死刑の判決が下されたが、内外の世論の反発を受けて刑は執行できなかった。反フランコ闘争の極めつけは、73年12月のフランコの懐刀であるカレロ・ブランコ首相の爆殺であった。

 1975年のフランコの死をもって、スペインも次第に西欧社会のメンバーに加わるようになる。78年のスペイン憲法は、バスク自治州憲章の公布を認め、翌年、住民投票で過半数の賛同を得て承認された。80年、初めてバスク自治州議会選挙が行われ、34万票(36%)の得票数を得たPNV(バスク・ナショナリスト党、1895年結党)がバスク3県で勝利する。86年、PNVの単独政権の終焉。これ以降、連立政権が続く。

  2016年10月7日、バスク自治政府が誕生してから80年の記念日に、ゲルニカで、バスクの民主勢力が総力を挙げて「バスクの独立」に邁進したことを記念する催しが行われた。参列者の中には、歴代の政府首班、そして初代大統領アギーレの遺族、さまざまな政党関係者、音楽家や作家、それにバスク語で小説を書き続けているキルメン・ウリベ(『ムシェ 小さな英雄の物語』の著者、白水社刊)もいた。

 バスクの民族的な戦いは、カタルーニャ独立運動と異なり、これからも続きそうである。



川成 洋 / Yo Kawanari

1942年札幌で生まれる。北海道大学文学部卒業。東京都立大学大学院修士課程修了。社会学博士(一橋大学)。法政大学名誉教授。スペイン現代史学会会長、武道家(合気道6段、居合道4段、杖道3段)。書評家。

主要著書:『青春のスペイン戦争』(中公新書)、『スペインー未完の現代史』(彩流社)、『スペインー歴史の旅』(人間社)、『ジャック白井と国際旅団ースペイン内戦を戦った日本人』(中公文庫)他。

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