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『裸足のピアニスト』


川成洋

裸足のピアニスト
下山静香

ヤマハミュージックメディア
■2017年10月刊
■定価1,800円+税

 本書は、今や「スペイン音楽の伝道師」としてスペインとラテンアメリカのピアノ曲を牽引している第一人者・下山静香氏の本格的なエッセイ集である。

 著者は、いよいよ20代の終着点が見えてきた頃、「スペインが私を呼んでいる、という妙な確信につき動かされて」スペイン行きを決意する。その後の行動はまさに電光石火の速さだった。まず、文化庁の芸術家在外研修員に応募する。スペインで受け入れてくれる先生を捜す。ウィーン郊外での講習にスペイン人の先生がやってくるという噂を耳にし、早速、講習への参加を申し込み、ウィーンへ飛ぶ。実際に先生の講習を受け、スペインでの研修員応募書類に推薦文とサインをもらう。この先生はマドリード在住のロサ・マリア・クチャルスキ。「自分のスタイルを押しつけるのではなく、その人の個性を尊重したうえで、よりよい方向に導いてくれるタイプ」の先生だった。この先生なら大丈夫。しかもぜひいらっしゃい、と言葉をかけてもらい、さながらブーメランのごとく日本に舞い戻り、文化庁の2回の難関試験にパスして、マドリードに到着する。いよいよ「音楽生活リセット」、別言すれば、「マドリードの果敢な冒険」が始まる。

 著者がマドリードで得た最初の体験は、ちょうど到着時に執り行われていたカトリックのセマナ・サンタ(聖週間)の宗教行事であった。聖週間最後の3日間で行われる教会ごとの「十字架の道行き」行列との遭遇。画家ムリーリョ──17世紀後半の対抗宗教改革運動において、宗教的かつ美的な理想を表現した代表的な画家──の《無原罪の御宿利》を嚆矢とする聖母マリア像とは異なり、おそらく著者が目にしたのは、幾分派手な衣姿の、大粒の涙を流す聖母マリア像であっただろう。その路上をゆっくりと進む行列に合わせて2階の窓から投げかけられる「サエタ」と呼ばれる、一種の短い聖歌……。

 このマドリードで、先述のロサ・マリアの指導のもと《アランフエス協奏曲》で知られるホアキン・ロドリゴのピアノ曲全曲を勉強した著者は、2年後のロドリゴ生誕100年を記念する本格的な「ロドリゴ・イヤー」にスペインのみならず、近隣諸国においても演奏することになった。

 それにしても、特筆すべきことは、市井のスペイン人の音楽への姿勢である。

 マドリードから車で2時間半の、ブルゴス県のコバルビアスという村での出来事。著者はこの村での講習会に参加し、その仕上げとして受講生がその村の教会で演奏する。演奏開始の時半後には教会の聖堂は村人たちでびっしりとなっている。それも、終日続いた演奏会はすべて満員だった。帰り道、路上で雑談している村人たちから「オラ! ピアニスタ・ハポネシータ!」と声をかけられる。そこで飲んだり話し込んだり……。また別のところでは、先生の別荘、あるいは古城や屋敷のある村での講習に参加した受講生が最後に演奏会を行う。近隣の人びとが一張羅でめかし込んで音楽を聴きに来ている。なんとも微笑ましい光景であり、絶えず前進しようとする若い音楽家の背中をそっと押しているのだ。

 マドリードでの1年間の生活を終えたところで、彼女はバルセロナに移り、マーシャル音楽院のマスター・コースに通う。ここでフェデリコ・モンポウの夫人、カルメン・ブラーボの指導を受け、モンポウ作品のほぼすべてを網羅できたのだった。バルセロナの後、アラゴンの州都サラゴサに移る。サラゴサは「寝ても覚めても、スペイン音楽」総仕上げの格好の場であった。こうして、スペイン民族の歴史と密接不可分なスペイン音楽の豊饒な魅力を吸収することができたのである。



川成 洋 / Yo Kawanari

1942年札幌で生まれる。北海道大学文学部卒業。東京都立大学大学院修士課程修了。社会学博士(一橋大学)。法政大学名誉教授。スペイン現代史学会会長、武道家(合気道6段、杖道3段、居合道4段)。書評家。

主要著書:『青春のスペイン戦争』(中公新書)、『スペインー未完の現代史』(彩流社)、『スペインー歴史の旅』(人間社)、『ジャック白井と国際旅団ースペイン内戦を戦った日本人』(中公文庫)他。

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