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『宣教のヨーロッパ ─大航海時代のイエズス会と托鉢修道会』


川成洋

宣教のヨーロッパ ─大航海時代のイエズス会と托鉢修道会
佐藤 彰一 著

中央公論新社
■2018年11月刊
■定価880円+税

 イベリア半島におけるキリスト教徒軍によるレコンキスタ(国土回復戦争、718年-1492年)、その後のスペインとポルトガルが覇権を求めて鎬を削った大航海時代において、スペイン内外で活動した修道会は、3つに分類できる。

 13紀初頭創立の、自ら福音の中のキリストの清貧に従って信仰真理を巡回して福音宣教する托鉢修道会(ドミニコ会、フランシスコ会、アウグスティヌス会)の福音宣教対象は、ヨーロッパ全域、その後宗教改革の大騒動とは無関係の新大陸とアジアへと広がった。次いで、13世紀後半創立の修道騎士会(カラトラーバ会、アルカンタラ会、サンティアゴ会)は、イベリア半島でイスラム勢力を放逐するレコンキスタのための好戦的宗教騎士団であり、戦闘と獲得した領土の維持・開発・植民を任務としていた。この3宗教騎士団の膨大な収入、軍事的・政治的重要性に注目したアラゴン王フェルナンド2世は3騎士団の団長職に就き、1501年、ローマ教皇アレクサンデル6世によって認められる(余談であるが、17世紀になって、貴族の中でも特別な意味を持たせるために、古くからキリスト教徒である「血の純潔」が証明された者だけが入団許可が下りた)。

 そして1534年にイグナシオ・デ・ロヨラと数人の同志(ザビエルを含む、全員が司祭に叙階されていた)が創立したイエズス会は、教皇への絶対的忠誠のもとで、対抗宗教改革の中核を担って、ヨーロッパにおける台頭期のプロテスタントからの失地回復、次いで大航海時代に新大陸とアジアの布教へと進む。

 イエズス会は、新大陸とアジアにおいては、前記の托鉢修道会の後塵を拝する立場であるが、その宣教活動において両修道会が重複しないよう、活動領域の棲み分けを行った。

 ザビエルが先鞭をつけた日本における布教に関しては、イエズス会が独占的立場を堅持していた。さらに1579年にイエズス会東インド巡察師ヴァリニャーノが日本を訪問した際に、独特な布教指針を提示し、イエズス会の布教の要諦として刻印されることになったものがある。非キリスト教社会における「順応政策」と称されるもので、「改宗とは自らが別の文化に回心し、それを見習い、順応すること」である。イエズス会はこの「順応政策」主義布教に固執したために、托鉢修道会との間に軋轢を生んだ。両修道会の日本における布教地域の棲み分け——イエズス会は主に長崎、フランシスコ会は主に関東地方——が行われていたが、両修道会の乖離・反発は途轍もないものだった。例えば、1597年2月5日、長崎西坂の刑場で、2人のいたいけな少年を含む26人のキリシタンが処刑される。フランシスコ会修道士は6人、イエズス会で受洗した信者は3人であったが、この殉教事件はローマでイエズス会によって、イエズス会の殉教として大々的に喧伝されたのだった。また、1614年、伊達藩主伊達政宗の命を受けて、フランシスコ会のソテロ神父を副使として、支倉常長団長の慶長遣欧使節団は太平洋を経由して、はるばるスペインとローマを訪問したものの、使節団本来の使命は烏有に帰したのだった。それは事前にライバルのイエズス会修道士が使節団を誹謗中傷していたからだった。

 一般論であるが、ザビエルと後継のイエズス会の活動期は、戦国の真っ只中で、大名の群雄割拠的状況と南蛮貿易を利用して宣教活動ができたが、托鉢修道会の宣教師が日本に到着した頃は、日本では政治的国家統合化が進み、専制主義体制の確立期に当たったために、キリスト教の布教は一段と困難となってしまった。



川成 洋 / Yo Kawanari

1942年札幌で生まれる。北海道大学文学部卒業。東京都立大学大学院修士課程修了。社会学博士(一橋大学)。法政大学名誉教授。スペイン現代史学会会長、武道家(合気道6段、居合道4段、杖道3段)。書評家。

主要著書:『青春のスペイン戦争』(中公新書)、『スペインー未完の現代史』(彩流社)、『スペインー歴史の旅』(人間社)、『ジャック白井と国際旅団ースペイン内戦を戦った日本人』(中公文庫)他。

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