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『新西班牙語事始め スペイン語と出会った日本人』


川成洋

新西班牙語事始め スペイン語と出会った日本人
浅香武和 著

論創社
■2018年2月刊
■定価2,500円+税

 日本人のスペイン語とのはじめての邂逅は、1549年、イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルの来日とキリスト教の伝来、と誰でも暗記している。もちろん、その通りなのだが、この大航海時代の覇権をめぐるスペインとポルトルの関係について確認しておきたいことがある。ザビエルはスペインのライバルであるポルトガル国王ジョアン3世(在位1502〜57年)の庇護の下で、ポルトガル船に乗り込み、喜望峰を廻りインドに赴き、そこから日本へ向かったのだった。その6年前の1543年、ポルトガル船が種子島に来航し、鉄砲を伝え、翌1544年、同じくポルトガル船が鹿児島に来航した。つまりこの頃の日本人と南蛮人(スペイン人・ポルトガル人)との交流は、もっぱらポルトガルがアジアに築いた貿易ネットと、ポルトガルの布教保護権下にあったイエズス会の布教活動を通じてであった。こうした状態は、ミゲル・ロペス・デ・レガスピのマニラ征服によってスペインがアジアの最前線拠点を築いた1571年まで続き、その年スペインの皇太子フェリペの名にちなんで「フィリピン」と命名する。これでスペインは太平洋航路を開拓し西回りでアジアに到達することができた。それ以降、本格的な日西関係が開始されたといえよう。

 それにしても、ザビエルをはじめとする宣教師たちは、たとえヤジロウのような通訳がいたとしても、日本人への布教は大変だったはずだ。日常の言葉のみならず、宗教的なコミュニケーションによってキリスト教の教義や典礼を伝えなければならなかったが、果たしてどれほど理解されたであろうか(ちなみに、宗教の自由が認められている現在の日本において、カトリックとプロテスタントの信者数を合わせて、キリスト教徒は全人口の1%に過ぎない)。それゆえ、たとえば、キリスト教の神を「大日」(真言宗の大日如来の略。これが間違いだと認識して、「デウス」に変更)、聖母マリアを「観音」などとしたために、キリスト教は「天竺宗」なる仏教の一派とみなされていたこともあったようである。

 本書によると、こうした困難の中で、司牧に携わる聖職者を養成するため九州の数ヶ所に、セミナリオ(神学校・中学堂)、コレジオ(大学堂・大学林)、ノビシャド(修練所)などが設立された。しかし、1587年の秀吉の「バテレン追放令」によりこうした学校や教育施設は解散や移転を余儀なくされた。そうした中で、1591年から10年の間に天草のコレジオでは各種の書籍が出版されている。伝道用の宗教書を嚆矢として『ラテン語文典』や『ラテン語・ポルトガル語・日本語対訳辞典』などの語学書もそこには含まれていた。また、コレジオが長崎に移転してから『日葡辞書』(1603)、マニラ版『日西辞書』(1630)、さらにローマでドミニコ会士コリャード編『ラテン語・スペイン語・日本語辞書』(1632)などが刊行された。

 徳川幕府の鎖国下1616年以降にあって、スペイン語を話す異国に辿りついた日本人漂流民が見聞した情報もあった。1841年、兵庫を出港した栄寿丸が太平洋上で激しい北西の風に煽られて、120日あまり漂流したが、幸いにもスペイン船に13人全員が救助され、60日後にメキシコに上陸することができた。2年後、あるいは4年後に、長崎に帰朝する者もいた。その中の1人、21歳の沖船頭善助、さらに少し遅れて帰国した紀州藩出身の与市に対する、数ヶ月間にわたる聞き書き調査をした紀州藩徳川家家臣岩崎俊章が『東航紀聞』10巻を上梓した。この見聞録には、スペイン統治下のメキシコの事情、現地のスペイン人、メキシコ人の生活状況、日常的なスペイン語などが克明に記されている。やがて明治になり、明治24年9月の新学期に、高等商業学校のカリキュラムに外国語選択科目としてはじめてスペイン語が加えられる。これこそ、我が国における本格的なスペイン語教育・研究の黎明を告げるものであった。



川成 洋 / Yo Kawanari

1942年札幌で生まれる。北海道大学文学部卒業。東京都立大学大学院修士課程修了。社会学博士(一橋大学)。法政大学名誉教授。スペイン現代史学会会長、武道家(合気道6段、居合道4段、杖道3段)。書評家。

主要著書:『青春のスペイン戦争』(中公新書)、『スペインー未完の現代史』(彩流社)、『スペインー歴史の旅』(人間社)、『ジャック白井と国際旅団ースペイン内戦を戦った日本人』(中公文庫)他。

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