「バレエ・リュス」とスペイン その2
下山静香

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 「バレエ・リュス」の振付家といえば、団の結成に参加し《レ・シルフィード》《シェエラザード》《火の鳥》など初期の傑作を振り付けたミハイル・フォーキンと、《牧神の午後》《春の祭典》の振付で物議をかもした天才ダンサー、ヴァーツラフ・ニジンスキーのイメージが強いかと思う。しかしこの2人が団を去った後のバレエ・リュスを支えたレオニード・マシーンも忘れてはいけない。

 1914年、モスクワのボリショイ劇場で踊っていたマシーンは、ディアギレフに声をかけられる。ディアギレフが次なる新作として考えていた《ヨゼフの伝説》(音楽:リヒャルト・シュトラウス)のヨゼフに、彼が適役だと感じたからだが、バレエ・リュスに入団させてその成長を見守るうちに、マシーンには振付の才能があると確信するに至る。フォーキンとニジンスキーに代わって、自分のアイディアを実行できるのはマシーンだと考えたのである。

 マシーンの振付処女作品は《真夜中の太陽》(1915年12月初演。音楽はリムスキー・コルサコフの歌劇《雪娘》のアレンジ)、その成功は、困難続きだったバレエ・リュスに新たな希望を吹き込んだのだった。そして1917年、マシーンの振付によるセンセーショナルな作品が誕生する。

 それが《パラード》である。

 ジャン・コクトーの台本、パブロ・ピカソの舞台美術と衣裳、エリック・サティの音楽という、当時最先端のいわゆる“とがった”芸術家たちによる《パラード》は、ディアギレフの目利き力、そして、時代を読みつつ時代を驚かせる、プロデューサーとしての才能の賜物であった。マラガ出身のピカソはこの頃30代半ばで、フランスに居を置いていた。かねてからディアギレフの作品に魅了されていた彼は、この《パラード》で初めてその創作に参加、その力を大いに発揮することになる。

 ピカソは当時、「総合的キュビスム」の時代にあり、その作風が反映された《パラード》は、キュビスムが登場した初の舞台作品となった。詩人アポリネールは、初演(5月18日、パリ・シャトレ劇場)のプログラムにこんなことを書いている。「――キュビスムの画家ピカソと、最も大胆な振付家マシーンが、絵画と舞踊、造形美術と身振りの結合を初めてやり遂げた。――」奇抜な衣装とともに話題となったのが、こちらはキュビスムではないスタイルで描かれたアクト・カーテン(舞台幕)である。これは、ディアギレフが作品のために初めて注文したアクト・カーテンで、以後、バレエ・リュスのプログラムに使われるなど、団のシンボル的な存在となった。ジャズのリズム、騒音や現実音が使われたサティによる音楽も斬新で、初演は賛否両論の大混乱。《パラード》は、バレエ・リュスが《春の祭典》以来巻き起こした芸術的スキャンダルとして、歴史に刻まれることとなったのだった。

 パリでの公演を終えたディアギレフとバレエ・リュスは、再びスペインへやってくる。スペインでの生活は相変わらず快適で、面々はフラメンコや闘牛に心躍らせる日々。バレエ・リュスの舞台監督グリゴリエフは、「われわれのスペインに対する愛情は報いられた。わたしたちはマドリードで本当に人気者になっていた」と回顧している(『ディアギレフ・バレエ年代記』より)。実際、マドリード公演は常に満員御礼、バレエ・リュスのファンで後援者だったアルフォンソ国王も、毎回欠かさずに臨席していたという。

 ディアギレフと、かつては彼の愛人だったニジンスキーとの関係はすでに悪化していたが、移動先のバルセロナでさらに深刻となる。“スペインのパリ”とでも言うべきバルセロナは、進取の気概に富んだ、スペイン随一の芸術都市である。人々は話題のロシア・バレエを観たがったし、ニジンスキーの名もマドリードより広く知られていて、全6回公演の前売り券は売り切れとなった。しかし、ディアギレフがニジンスキー個人に重きを置いた宣伝をしなかったことにニジンスキー夫妻が激怒し、公演の途中で荷物をまとめマドリードに帰ろうとしたのである。結局、バルセロナを出ることは許されなかったのだが、この事件は、精神が不安定だったニジンスキーにさらなるダメージを与えることになった。ニジンスキーはこの後の南米巡業に参加するものの、もはや病状の悪化は明らかで、1919年1月をもって彼のキャリアは終焉を迎えるのだった。

アルフォンソ13世

 さて一行は、ディアギレフとマシーンをバルセロナに残して南米巡業へ。当初、イギリスの船を使う契約となっていたが、ディアギレフは中立国スペインの船にするべきだと主張し、急きょ往路の旅程が変更となった。ディアギレフの脳裏には、カタルーニャ出身の作曲家グラナドス夫妻が乗っていたフランス籍の船が、ドイツUボートによる無差別攻撃の犠牲となった出来事がよぎったのかもしれない。このいわゆる「サセックス号事件」が起きたのは1916年の春、つい前年のことだった。とはいえ、すべての移動をスペイン船にすることはできず、彼らがリオへの移動に使ったイギリスの定期船は実際に潜水艦に狙われ〈無事逃げ切った〉、サンパウロから次の公演地ブエノスアイレスに向かうためにチャーターした小型船も、故障を修理しチリへ向かう途中で敵艦に沈められる運命をたどった。戦時下の航海は、常に危険と隣り合わせだったということだろう。

 団員たちがバルセロナに戻ってきたのは、約4カ月後である。そしてしばらく滞在し、公演を行った。無名のストラヴィンスキーを一躍世に出した《火の鳥》《ペトルーシュカ》のほか、前述の《パラード》も上演された〈1917年11月10日、リセウ劇場〉。ちなみにピカソとバルセロナは、浅からぬ縁がある。14歳でバルセロナに移住し美術学校に入学、またパリに出る前には、文学カフェ「クアトラ・ガッツ」に入り浸って ムダルニズマ (カタルーニャのモデルニスモ)をになう若い芸術家たちと交流し、店のポスターを描いたりしていた。10代の大事な時期を過ごし、画家としてスタートを切ったのがこの街なのである。そのピカソが、今や世界的に有名になっているのだから、バルセロナの人々も強い関心を持って鑑賞に出かけたはずである。舞台がはねて冷めやらぬ興奮を抱えた彼らは、例えばランブラス通りのバルやカフェでどんな芸術談義を交わしただろうか。

 翌1918年、スペインとバレエ・リュスの関係はより深くなる。戦争は終わらず、ディアギレフの故郷ロシアも前年に勃発した革命と内戦で混乱状態となるなか、彼と団員たちはおもにスペインで時を過ごす。地方の小さい町でも多くの公演を行い、熱狂的に迎えられたのだった。そして厳しい経済状況下で、ディアギレフはついに念願の「スペイン的なバレエ」新作の準備に入るのである。



下山 静香 / Shizuka Shimoyama

桐朋学園大学卒。99年、文化庁派遣芸術家在外研修員として渡西、マドリード、バルセロナほかで研鑽。NHK-BS、Eテレ、フランス国営ラジオなどに出演。海外アーティストとの共演多数。CD《ゴィエスカス》《ショパニアーナ》など10枚、共著は10冊以上を数える。翻訳書『サンティアゴ巡礼の歴史』。2015年より「下山静香とめぐるスペイン 音楽と美術の旅」ツアーシリーズを実施。桐朋学園大学、東京大学 非常勤講師。日本スペインピアノ音楽学会理事。

www.facebook.com/shizukapianista17
裸足のピアニスト・下山静香のブログ ameblo.jp/shizukamusica

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