「バレエ・リュス」とスペイン その5
下山静香

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 《三角帽子》で、踊り手としてのみならず振付家としての才能を開花させ、まさに成熟期に入ろうとしていたレオニード・マシーン。しかし、彼を見出したディアギレフとの間には、今や亀裂が生じ始めていた。ディアギレフは、ニジンスキーとの交際の失敗を教訓に、なるべくマシーンを拘束しないように努めていたが、マシーンがある新人の女性ダンサーと付き合っていると知って激怒する。1920年の終わりごろには、2人の関係は急速に悪化しており、翌年、ディアギレフはマシーンと別れる決断をする。

「私はもう君の力を必要としない。したがって、君は自由の身だ」ディアギレフのこの言葉をマシーンに直接伝えなければならなかったのは、バレエ・リュスの舞台監督グリゴリエフであった。ディアギレフが一度決断したら、再び撤回されることはない。マシーンも私もそれをよくわかっており、握手を交わして別れたと、グリゴリエフは回想している。

 あのニジンスキーと同じように、マシーンも去っていってしまった —— このことは、バレエ・リュスの団員たちを大いに悲しませた。ディアギレフも正気を失うほどのダメージを受け、数日ものあいだ人前には出てこなかったという。そして、マシーン退団とともに、バレエ・リュスの振り付けカテゴリー「第3期」、多くの名作を生み出した時代は終わりを告げたのだった。

 それでもなんとか立ち直ったディアギレフがやらなければならなかったことは、急いで新しい振付家を見つけることだった。そしてマシーンが踊っていた役も、さまざまな踊り手たちに引き継がせる必要があった。なかでも、本格的なスペイン舞踊の要素が盛り込まれた《三角帽子》の粉屋役は最難関だった。

 この年、アルフォンソ国王の要望もあって、スペインでの公演がセッティングされ、お国ものである《三角帽子》ももちろん上演されることになった。マシーン不在ながらも、マドリード公演の初日は大成功をおさめた。スペインらしさ満載の《三角帽子》に人々が魅了されたのは言うまでもなく、粉屋役を任されたウォイジコフスキー(それまでは代官役を踊っていた)も見事に踊りきり、観客に感銘を与えた。さすがに、マシーンが会得していたスペイン人特有の身のこなし、空気感のようなものはなかなか出せなかったようではあるが、若い彼にその妙味を求めるのは酷というものだろう。

 久しぶりに戻ってきたスペインで、団員たちは再びこの地の民俗舞踊に魅せられた。そしてディアギレフは、ギターやカスタネット、唄に合わせて踊る「クアドロ・フラメンコ」を制作上演しようと思い立つ。彼は《クアドロ・フラメンコ》のためにスペイン人のダンサーやミュージシャンを集め、再びピカソに舞台装置と衣装を依頼した。音楽の編曲は、《三角帽子》を作曲したファリャが行うというスペインづくしである。しかし、ディアギレフはこの作品の制作にあたって、芸術的な決定をほとんど他人に任せてしまったという。なんとも彼らしからぬ行動である。マシーンを失ったショックの余波だったのだろうか…。

 それはともかくとして、パリのゲテ・リリック劇場で披露された《クアドロ・フラメンコ》は熱狂的な喝采を浴び、毎晩上演されることになった。おかげで、パリのシーズンは大成功となったのであるが、最後に思いもよらない事件が待っていた。マシーンは退団後、バレエ・リュスの団員を囲い込み始めており、それに同調した何人かのダンサーたちが、パリ興行が終わる前日に退団を申し出て、離脱してしまったのである。そんな困難にも遭いながら、《クアドロ・フラメンコ》は、続くロンドンのシーズンでもパリ以上の評判を呼び、批評家たちも熱中する舞台となった。

 この《クアドロ・フラメンコ》のほか、《パラード》(『acueducto』第20号「バレエ・リュスとスペイン」その2参照)、《三角帽子》《プルチネルラ》などでバレエ・リュスに多大な貢献をしたピカソは、1924年、新作《青列車》(台本:コクトー、音楽:ミヨー、振付:ニジンスカ、装置:ローランス、衣装:シャネル)のためのアクト・カーテンをデザインしている。2人の女が海辺で走っている姿が描かれたもので、好評を博したため、正式にディアギレフに献呈された。ディアギレフはその後、これをバレエ・リュス公式のアクト・カーテンとして何年も使用したが、彼がピカソに注文依頼をするのはこれが最後となった。

 その後、スペインにおけるバレエ・リュスの公演地は、1924年、1925年、1927年とバルセロナが続く。地中海に面してフランスに比較的近く、スペイン随一の芸術都市でもあるバルセロナでは、興行をうちやすかったのだろう。ここでも《三角帽子》を上演、マドリードでの初演時と同様に大成功をおさめた。1927年には、振付家としてマシーンが復帰し、彼の最高の当たり役といえる粉屋を演じて観客を喜ばせている。

 しかし1929年の夏、バレエ・リュスに衝撃が走った。ディアギレフ死す——。バレエ界のみならず、世界の芸術界に旋風を巻き起こしたディアギレフは、ヴェネツィアで突如、そのバイタリティあふれる人生の幕を閉じることになったのである。死因は糖尿病の悪化で、まだ57歳であった。主宰者を失ったバレエ・リュスは、そのまま解散。その後復活への動きはあったものの、約2か月後に始まった世界恐慌の影響もあり、再建は夢となってしまった。

 ディアギレフとバレエ・リュスがスペインとかかわった時期は、ほぼ12年にわたる。そのあいだ、スペインは彼らにとって常に居心地がよく、生活を楽しめる場所だった。そして、ピカソ、ファリャ、ガルシアといった、「スペイン」という国でしか生まれなかったであろう才能が、バレエ・リュスに芸術的な刺激を与え、豊かな果実をもたらしたのだった。

 バレエ・リュスの遺産は、現代のバレエ界に脈々と受け継がれている。しかし、あれほどまでに輝かしく刺激的な創作は、やはりディアギレフというひとりの怪物と、それを生かす「時代」との邂逅による、奇跡の産物だったのではないか…そんな思いもよぎるが、過去ばかり振り返るわけにもいかない。またいつ、どんな形で、私たちを驚かせる新しい芸術が現れるのか、楽しみにアンテナを張ることにしよう。

 

ヴェネツィアにあるディアギレフの墓(写真:Giovanni Dall’Orto)



下山 静香 / Shizuka Shimoyama

桐朋学園大学卒。99年、文化庁派遣芸術家在外研修員として渡西、マドリード、バルセロナほかで研鑽。NHK-BS、Eテレ、フランス国営ラジオなどに出演。海外アーティストとの共演多数。CD《ゴィエスカス》《ショパニアーナ》など10枚、共著は10冊以上を数える。翻訳書『サンティアゴ巡礼の歴史』。2015年より「下山静香とめぐるスペイン 音楽と美術の旅」ツアーシリーズを実施。桐朋学園大学、東京大学 非常勤講師。日本スペインピアノ音楽学会理事。

www.facebook.com/shizukapianista17
裸足のピアニスト・下山静香のブログ ameblo.jp/shizukamusica

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