ガルシア・ロルカと音楽 その1
下山静香

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 スペインの詩人といって、誰を思い浮かべるだろうか?私ならまず、ベッケル、マチャード、アルベルティ。もっとさかのぼってケベド、ゴンゴラ。ノーベル文学賞の受賞者ヒメネスとアレイクサンドレも、忘れてはいけない。しかし、一般に広く知られ、日本でも人気がある詩人となると、フェデリコ・ガルシア・ロルカの右に出る者はいないだろう。なぜなら、ロルカの世界は、「三大悲劇」に代表される戯曲と、ジプシーを詠んだ詩作とフラメンコ音楽とのかかわりによって、文学だけにとどまらない広がりをみせているからだ。私が彼を知ったのも、演劇にはまっていた学生時代に観た《血の婚礼》と《イエルマ》がきっかけだった。

「血」の宿命、「家」の呪縛、土地の因習といったものに翻弄される作中の女たちの姿は、“暗い魔力がうごめくアンダルシア”のイメージを私に焼き付けたものだ。

 その後かなりの年月を経て、スペイン音楽の世界に足を踏み入れた私。テレサ・ベルガンサの歌う、スペイン歌曲のアンソロジーアルバムで知ったのが、《ロルカのスペイン古謡》だった。ロルカって、あのロルカだよね?なぜ、彼が音楽を?

 と、当時の私は思ったのだが、実は、この組み合わせはまったく不思議ではない。だってロルカは、音楽家になりたかった人なのだから。

というわけで、今回は「ロルカと音楽」にスポットを当ててみたいと思う。

 フェデリコ・ガルシア・ロルカは、1898年6月、グラナダの村フエンテ・バケーロスで農場を営む裕福な家庭の長男として生まれている。父フェデリコは、フラメンコの唄い手やギタリストを招いては宴を催していたから、一家はフラメンコの音楽と近しく接していた。また、元教師だった母ビセンタは歌が得意で、息子たちには音楽の教育を受けてほしいと思っていたそうだ。そして乳母や使用人たちは、グラナダに古くから伝わる民謡を子供たちに歌って聴かせることもあったはずである。そのような環境で、幼少時から様々な音楽に親しんだロルカは、ギターを弾くことを覚え、グラナダ大聖堂のオルガン奏者をしていたエドゥアルド・オレンセにピアノを習い始めた。11歳の頃からは、ヴェルディの弟子だったというアントニオ・セグラのもとで、ピアノに加えて和声と作曲も学んだというから、かなり本格的である。実際、少年時代のロルカは、文学よりも音楽に魅かれており、時が来たらパリに出て音楽の勉強を続けたいと思っていたのだった。しかし、師のセグラが亡くなり、さらに、ロルカが音楽の道に進むことに対する父親の反対もあって、音楽家になる夢はほぼ断たれてしまった。1916年、ロルカ18歳のことだった。

 1919年、ロルカはマドリードの「学生館(Residencia de estudiantes)」に入館する。ここは、単なる学生寮ではない。英国オックスブリッジのコレッジ制度に着想を得て、館内では文化・芸術イベントが活発に催されており、寮生たちは、知的刺激に満ちた雰囲気のなかで切磋琢磨していた。(これもかつてのオックスブリッジにならって、女子禁制。ただし、女子学生館も1915年に創設されている)ロルカはここで、「スキャンダル映画監督」の異名をとるブニュエルや、シュルレアリスム美術界の奇才ダリと交友を結んでおり、この3人の関係をテーマとした書籍は翻訳出版もされている(白水社『ブニュエル、ロルカ、ダリ —— 果てしなき謎』)。彼らがいた時期が、学生館におけるもっとも興味深い年月だったと、特別寮生として長く暮らしたモレノ・ビリャ(27年世代に属する詩人・芸術家,1887-1955)は回想している。

 さて学生館でのロルカは、文学への興味が勝ってはいたが、法律と哲学を学ぶ身だった。しかし、音楽に対する愛が薄れたわけではなかった。ギターで弾き語ることもあったが、とりわけピアノの演奏は素晴らしく、多くの仲間たちに特別な印象を与えている。前述のモレノ・ビリャは、「フェデリコは巨匠のようにピアノの前に座り、ひとたび指を鍵盤に置けば、楽器を完全に支配した」と証言している。さらに彼は、ロルカの演奏の素晴らしさは、高貴なものと民俗的なものの理想的な結合、柔軟性と厳しさのからみ合いにあり、それは、闘牛士やフラメンコの唄い手・踊り手にも通じる、とてもアンダルシア的(muy andaluza)な性質なのだ、とも述べている。

 ロルカが好んで弾いたピアノ曲のレパートリーは、スカルラッティ、モーツァルト、シューベルト、ベートーヴェン、ショパン、アルベニス、ドビュッシー、ラヴェル、ストラヴィンスキー、ファリャと、実に幅広かった。あるときは学生館内で、ベートーヴェンのソナタ「熱情」をプログラムに含むソロコンサートまで開いている。ヘラルド・ディエゴ(27年世代に属する詩人, 1896-1987)は、「学生館で、のちにはゴヤ通りの小さなピソで彼が弾いていた、ドビュッシーの前奏曲やショパンのマズルカを、どうして忘れられようか」と、友人ロルカとの思い出を語っている。

 ロルカは、既存の楽曲を演奏するだけでなく、即興や作曲も行っていた。ホルヘ・ギジェン(27年世代に属する詩人,1893-1984)は、「誰かに、ある作曲家の名前をリクエストされて、彼はピアノを弾き始めたのだが、それはまさにその作曲家のスタイルによる即興演奏だった」と証言しているし、サンティアゴ巡礼路にあるシロス修道院のオルガンで、ベートーヴェンの交響曲第7番第2楽章をベースに長い即興演奏を行った、というエピソードまで残っている。それが本当なら驚くべきことだ、と思ってしまうが、彼が演奏、楽典、作曲の基礎と、芸術に関する多角的な才能とを持ち合わせたことを知れば、あながち伝説の類でもないと思えるのである。

 ロルカ自作の曲は、若い頃のものしか残っていないが、実は学生館時代もよく作曲していた。しかし本人は、素人の手習いだから、と言って捨ててしまうことが多かったという…。

 ほどなくして、ロルカは、同じアンダルシア出身の作曲家マヌエル・デ・ファリャと親交を結ぶことになる。ファリャは、静かな環境を望んで、マドリードからグラナダに転居してきたのだった(1920年)。20歳以上年長で、《三角帽子》などの成功で国際的に名を馳せていたファリャと知り合い、ロルカの芸術世界はより深まったことだろう。

 そのお話は、また次回。



下山 静香 / Shizuka Shimoyama

桐朋学園大学卒。99年、文化庁派遣芸術家在外研修員として渡西、マドリード、バルセロナほかで研鑽。NHK-BS、Eテレ、フランス国営ラジオなどに出演。海外アーティストとの共演多数。CD《ゴィエスカス》《ショパニアーナ》など10枚、共著は10冊以上を数える。翻訳書『サンティアゴ巡礼の歴史』。2015年より「下山静香とめぐるスペイン 音楽と美術の旅」ツアーシリーズを実施。桐朋学園大学、東京大学 非常勤講師。日本スペインピアノ音楽学会理事。

www.facebook.com/shizukapianista17
裸足のピアニスト・下山静香のブログ ameblo.jp/shizukamusica

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