ガルシア・ロルカと音楽 その4
下山静香

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ロルカへのオマージュ1

 これまで、音楽を愛し、ピアノを弾き、スペイン民謡を愛した「音楽家」としてのロルカをみてきた。詩集や戯曲の成功によって、その才能を広く認められるようになったロルカだが、1936年、みずからに突然の悲劇が訪れる。

 米西戦争(1898年)に大敗したこともあり、20世紀初頭からスペインの内政は不安定だった。以前当エッセイにも登場した、芸術を愛し芸術家を篤く庇護した国王アルフォンソ13世は、その後どうなったか? というと、1931年に国外亡命の憂き目をみている。国王は、混迷する国内情勢を鎮めるべく、クーデターを起こしたプリモ・デ・リベラ将軍を首相に登用し(1923年)、軍事独裁政権下で王権を守ろうとするものの、結局リベラ将軍は失脚。その後の統一地方議会選挙で共和派支持勢力が圧勝し、1931年、共和政府が樹立されたのである。

「第二共和政」と呼ばれるこの時代には、スペインの民衆文化を再興しようという機運も活発になり、ロルカが結成した学生移動劇団「バラッカ」も、政府に支持されて補助金を得ている。

 しかし、社会は右に左に振れ動いた。1936年2月の選挙では、再び左派が総勝利して人民戦線政府が成立するが、政治的混乱は続き、同年7月17日、フランシスコ・フランコ将軍率いる右派勢力が軍事蜂起。スペイン内戦の勃発である。

 ロルカの故郷グラナダでは、内戦前夜から、スペイン・ファシズムを掲げるファランヘ党員とその支持者たちが勢力を広げていた。ロルカは“直接的に”政治にかかわるタイプではなかったが、公での言動で共和派支持の立場を明確にしており、ファランヘ党員から目をつけられていた。また、ロルカのセクシュアリティも、彼らの気に食わなかった。極右とその支援勢力にとって、同性愛者は唾棄すべき対象だったのである。

 しかしロルカは、よりによって不穏な空気が濃厚になってきていた7月に、グラナダに赴いてしまう。「行ったら捕まる」との友人の警告を聞かずに、そして、ロルカ自身も危険を感じとっていたにもかかわらず……。

 果せるかな、ロルカがグラナダに到着したわずか3日後に、クーデターは起きた。

 その後のロルカは、実家の農園から出ずにひっそりと滞在していたが、ある事件をきっかけにフランコ派に居場所が知られてしまう。友人ルイス・ロサレスに対策を相談したロルカは、マヌエル・デ・ファリャの家に行くことを提案されている(ちなみに、ロサレスはファランヘ党員だったが、ロルカは政治的立場に関わらず「対・人間」の付き合いをしており、彼ともよき友人だった)。しかし、ロルカはこの提案に乗り気ではなかった。この頃ファリャとは疎遠になってしまっていたのと、自分が心から尊敬する音楽家に変わりはないファリャに迷惑はかけられない、という思いもあっただろう。

 結局、ロルカはロサレスの家で保護されることになる。ロサレス一家は、グラナダ・ファランヘ党内の有力者だったため、さすがにそこには手を出せないだろうとの判断だった。しかし、ロサレスの留守中に、元CEDA(スペイン独立右派連合)代議士のルイス・アロンソ率いる一隊がやってきて、ロルカは連行されてしまう。

 ロルカが拘束されたと知ったロサレスやファリャは、彼をなんとか助けようと奔走し有力者にかけ合ったが、無情な運命を変えることはできなかったのだった。

 8月19日の早朝、監禁場所から連れ出されたロルカは、グラナダ近郊のオリーブ畑で銃殺される。享年38歳、その遺骨はいまだ発見に至っていない。

 それから2年7ヶ月後の1939年3月、悲惨を極めた内戦は、叛乱軍側の勝利で終結。その後長らく、フランコ独裁下のスペイン国内では、ロルカの名は禁句に等しかったが、国際的には、「ロルカ」はスペイン内戦の悲劇を象徴するコードのひとつとなった。そして、現在に至るまで、様々なアーティストによってロルカへのオマージュ的な作品が創作されている。

 その中からまず、私が実際の演奏を通じて個人的に思い入れのある、フランシス・プーランク作曲《ヴァイオリンとピアノのためのソナタ》をご紹介しよう。

 プーランクは、「フランス六人組」と呼ばれる作曲家の1人で、パリでスペイン音楽ブームが起きていた頃に青年期を送っている。15歳からは、スペイン出身の名ピアニストで、ドビュッシーやラヴェルなど名だたる作曲家の新作初演を行っていたリカルド・ビニェスにピアノを師事し、大きな影響を受けている。

 

フランシス・プーランクとワンダ・ランドフスカ

 ロルカとプーランクは同世代。たった7ヶ月違いなので、同い年と言ってしまっても差し支えないほどである。プーランクは、「学生館」でイベントを行ったこともあるが、2人の間に親しい交流があったかどうかは今のところ不明のようだ。いずれにせよ、プーランクにとってロルカは、アポリネールやエリュアールと同じくらい重要で、好きな詩人だった。スペイン——それもアンダルシアという、独特な風土が抱えるものをその作品に投影させたロルカと、洗練されたパリに生まれ育ったプーランクとの間には、目立った共通項はないようにも思えるが、実はそんなことはない。芸術家としての方向性、作品や人生に影を落とす「死」の存在、政治に対する姿勢、そしてセクシュアリティと、2人を結ぶキーワードはいくつも挙げることができるのである。プーランクがこれらの類似を認識していたかどうかはわからないが……。

 プーランクは、ロルカ銃殺から5日後の手紙でスペイン内戦に触れ、かの地の友人たちを思って心を痛めている。この時点で、ロルカが亡くなった噂が彼の耳に入っていた否かはともかく、隣国での内戦がプーランクにも大きなショックを与えたことは間違いない。

 さて、プーランクが、ジネット・ヌヴー(フランスの天才女流ヴァイオリニスト)の依頼で《ヴァイオリンとピアノのためのソナタ》を作曲したのは、1942年から翌年にかけてのこと。第二次世界大戦の只中で、パリがナチスドイツの占領下にあった時期である。 

 弦楽器よりも管楽器、特に木管楽器を好んでいたプーランクが、弦楽器のためのまとまった作品を完成させることができたのは、ヌヴ—からの依頼という理由に加えて、「ロルカに捧げたい」という強い思いがあったからかもしれない。

 その思いは、どのようにこのソナタに現れているのだろうか。それはまた、次号にて。



下山 静香 / Shizuka Shimoyama

桐朋学園大学卒。99年、文化庁派遣芸術家在外研修員として渡西、マドリード、バルセロナほかで研鑽。NHK-BS、Eテレ、フランス国営ラジオなどに出演。海外アーティストとの共演多数。CD《ゴィエスカス》《ショパニアーナ》など10枚、共著は10冊以上を数える。翻訳書『サンティアゴ巡礼の歴史』。2015年より「下山静香とめぐるスペイン 音楽と美術の旅」ツアーシリーズを実施。桐朋学園大学、東京大学 非常勤講師。日本スペインピアノ音楽学会理事。

www.facebook.com/shizukapianista17
裸足のピアニスト・下山静香のブログ ameblo.jp/shizukamusica

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