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acueducto 40 特集「私の道にスペイン語があって。」

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スペイン料理と私


渡辺万里
約30年前の、ファニータの次女トリニと筆者。

La cocina española y yo

スペイン料理と私

 語学が得意だったことは一度もない。それなのに、スペイン語だけはなぜか続けることができたのは、語学のクラスで はなく、政治学科の「中南米の政治経済」というテーマのゼミで、ペルーの新聞記事を読むことからいきなり始めさせられたからだと思う。「語学は目的ではない、手段だ」と説く比較政治学の教授のおかげで、私は「スペイン料理を知るために」 スペイン語を学ぶという選択肢を手に入れたのだ。それからほぼ40年。スペイン語のレベルは大して上がらなかったけれど、スペイン中のシェフたちと友達になれた。彼らと、スペイン料理の世界が大きく揺れ動き変動していくエキサイティングな20年を体験することができた。少なくとも食についてなら、彼らと議論もできる。だから私のスペイン語は、十分に目 的を達したことになる。しかし、どんなに有名なシェフたちと知り合ったにしても、私に「食とは何か」を教えてくれたのは、スペインの女性たちだったと思う。最初の出会いは、北の海辺の町サンタンデールで民泊して語学を学んでいたときのお母さん、ファニータだ。

 ファニータの口癖は、「¡Aquí no se echa nada!(この家では何も捨てないのよ)」。鶏のガラでスープをとった後、その肉で最高に美味しいクロケッタス(コロッケ)を作る。安いアンコウの頭を買ってきてレストランに負けない風味のスープを作ったら、アンコウの肉をこそげとって米料理に入れる……。そんなファニータの料理を子供たちと奪い合って食べながら、私は「貧しくても豊か」という言葉の意味を教えてもらった。勉強が好きな中学生だった次女のトリニとは今も付き合いがあるが、彼女は「ママの料理をちゃんと覚えたのはマリのほうね、私が作るよりママの味がする」と言ってくれるのを、私は何より嬉しい褒め言葉だと思っている。

 もう1人、各地をまわって料理の勉強をしていた時期の私に深い印象を残したのは、リオハの老舗のボデガの厨房で働いていたティナだ。社長のお気に入りの料理人だったティナは、ボデガを訪れる大勢のお客さんのための料理をほとんど1人で作っていて、私は何日も彼女の手伝いをさせてもらって料理を覚えた。彼女の口癖は「¡Cocina es cariño!(料理は愛情よ)」。食べる人に喜んでほしいと思う愛情が料理を美味しくするの。ティナはそう言って、お客さんの褒め言葉に嬉しそうに笑い、「またいらしてください!」と笑顔で送り出していた。仕事だからとただ料理をするのではなく、1回ずつ心を込めて料理していたティナの笑顔を思い出すと今でも、笑顔で料理をしなくちゃね、と思える。

リオハの料理人、ティナ。

 料理の原点は、家庭にある。どんなに華麗で洗練された料理の作るシェフも、そのルーツはお母さんの料理なのだ。だから私は、『毎日つくるスペインごはん』という本を書いた。ファニータの知恵や ティナの愛情やピラールの教えを、1人 でも多くの人に知ってもらうために。スペインの女性たちの素朴な家庭料理を大 勢の人が好きになってくれたら、何より嬉しく思う。

 そして、私に料理を教えることの面白さと大変さを教えてくれたピラール。マ ドリードで老舗の料理学校を経営してい たピラールは、古風ではあっても廃れ ることのないシンプルな料理の数々を教えてくれたが、私の耳には今も、ピラールがサラダをアリニャール(味付け)するときにつぶやいていたフレーズが聞こえてくる。「Echa aceite como los generosos, vinagre como los tacaños y sal como los puntuales.(オイルは気前のいい人に、酢はケチな人に、塩は几帳面な人にかけさせなさい)」。オリーブオイルはたっぷりと、酢は少なめに、塩はちょうど良い量を。かつてスペインのお母さんたちが娘に教えたというこのフレーズで、私は今も自分の生徒たちにサラダの味付けを教えている。

マドリードの料理の恩師、ピラール。


渡辺 万里 / Mari Watanabe

大学時代にスペインと出会い、 その後スペインで食文化の研究に取り組む。1989年、東京に『スペイン料理文化アカデミー』を開設しスペイン料理、スペインワインなどを指導すると同時に、テレビ出演、講演、 雑誌への執筆などを通して、スペイン食文化を日本に紹介してきた。「エル・ブジ」のフェランを筆頭に、スペインのトップクラスのシェフたちとのつきあいも長い。著書は『エル・ブジ究極のレシピ集』(日本文芸社)、『修道院のうずら料理』(現代書館)『スペインの竈から・改訂版』(現代書館)など。


<スペイン料理文化アカデミー>
スペイン料理クラス/スペインワインを楽しむ会/フラメンコ・ギタークラスなど開催
〒171-0031 東京都豊島区目白4-23-2
TEL: 03-3953-8414 HP: www.academia-spain.com

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